江川が投じた169球目が無情にも…

誰ともなく返ってきた。このとき初めて江川はみんなの顔をまともに見れた。甲子園に来てから、いや県予選のときから江川はずっと俯いた顔をしていた。

ノーヒットノーランをいくらやろうが、江川はバツが悪そうにナインとなるべく目が合わないようにしていた。センバツ以降心のスタンスが明らかに変わったのは肌身で感じている。誰がどう悪いということじゃない。

返事を聞いたせいか、雨でぼや〜としていた視界が開け、照明がついていることもようやく気付いた感じだ。江川が生き返った。

「よし、行こうぜ」

キャッチャーの亀岡がみんなに声をかけ、各々持ち場へと戻った。

あのとき、同じ場所で同じ雨に打たれてみんなずぶ濡れだった。そして皆が同じ思いとなった。マウンドに集まったのは後にも先にもこれ一度きりだった。

打席にいる小柄の長谷川は、3年夏前にレギュラーに抜擢された。1、2年のときは対戦相手の試合を偵察に行くマネージャーだった。三年になると、入ってきたばかりの一年生篠塚和典(元巨人)がすぐレギュラーとして起用されたため、長谷川は三塁コーチャーを担当する。あるときレギュラー組の走塁練習でショートに入っていた長谷川が、ランナーで走ってきた篠塚の肘にカウンター気味にタッチし骨折させてしまう。

「ええ、意図的にやりました」

長谷川は平然とした顔で言った。悪気がどうこうの問題ではない。名門校の食うか食われるかのレギュラー争いは綺麗事でどうなるものではない。

その後、長谷川は篠塚に代わってレギュラーを獲得する。とにかく長谷川は1年時から誰よりも江川を見てきている。高校3年の江川の球は高1、高2のときと比べると格段に球威もスピードも落ちていた。

銚子商業ナインは試合前から勝つんだという意識は高かったが、調子が悪いといえども江川は江川、ナイン全員警戒は怠らなかった。ただ長谷川だけが江川を必要以上に意識しなかった。

「こういう場面でも“打て”のサインを出してくる斉藤先生はやっぱり凄い。僕自身そうだろうなと思ってましたけど。ツースリーになって作新がタイムを取ったのでベンチに呼ばれてストライクスクイズのサインが初めて出ました。もしストライクがきてたらわかんなかったです」

長谷川は、県予選から不思議と重要な場面に回ってくるラッキーボーイ的存在だった。俺がこの場面でストライクスクイズを決められなかったら、俺を入れる意味があるのか。長谷川は多大なプレッシャーよりも男冥利というか男意気を感じる。

「さあ、来いや!」

延長十二回、一死満塁の最終打席、全国2660高校の球児たちのなかで長谷川だけが唯一江川を同等に見ていた。いやむしろ格下に見た瞬間だった。

「ボール!」

江川が投じた169球目が無情にもボールの判定。土砂降りの雨のなか、決着がついた。

試合が終わった瞬間、江川は悔しさよりもあ〜終わったんだという気持ちになった。満足感、安堵感とも違う。終わったんだ〜という、ただそれだけの気持ちになった。

文/松永多佳倫 写真/shutterstock

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松永 多佳倫
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