過去の自分の恋愛経験を小説で赤裸々に公表

島崎藤村は、前半生は浪漫主義の詩人として、後半生は自然主義を代表する小説家として、近代日本文学の発展に大きく貢献した。

人間の内面を描き出す自然主義の作家だけに、自身の恋愛模様を題材にした作品で有名だが、いずれも露悪的な内容だ。

最も有名なのが“姪っ子”との一件を描いた1918(大正7)年発表の小説『新生』だろう。彼には、世間がドン引きするような自身の恋愛に対する行動を赤裸々に告白せずにはいられない「暴露癖」があったといえる。また、その恋愛遍歴から、年の離れた「若い娘」を好んでいたことでも知られている。

20歳差の恋愛から妊娠という「文壇最大のスキャンダル」を描いた『新生』
20歳差の恋愛から妊娠という「文壇最大のスキャンダル」を描いた『新生』
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島崎藤村は本名を春樹といい、1872(明治5)年、信州・馬籠(現在の岐阜県中津川市)で生まれた。生家はかつて木曽街道の馬籠宿の本陣であり、問屋と庄屋も兼ねる旧家であった。9歳のときには上京して15歳でミッションスクールの明治学院本科(現在の明治学院大学)に入学し、16歳でキリスト教の洗礼を受けている。

1892(明治25)年9月に明治女学校高等科の英語科教師となったが、着任後すぐに教え子の佐藤輔子に恋愛感情を抱く。このとき、藤村は20歳、輔子は21歳だった。

彼女に婚約者がいると知った藤村は傷心し、生徒に「燃え殻」といわれるほど授業に身が入らなくなったことで、その恋心が学校中に知れ渡ってしまう。ついには教室で輔子の顔を見ることすら苦痛になり、教師になってわずか4カ月後の1893(明治26)年1月下旬に退職してしまった。

しかし、翌年4月には復職する。そうして教師としていくつかの学校に赴任しつつ詩作を行っていた1899(明治32)年、これまた教え子であった秦冬子と結婚した。藤村は27歳、冬子は21歳だった。

なお、佐藤輔子に失恋した経緯は、15年以上を経て1908(明治41)年に発表した自伝的小説『春』で、自身を「岸本」、輔子を「勝子」として描き、自慰的に昇華した。