奥崎謙三の影響力 

 お父さんが沖縄に派兵されたのはいつごろですか?

坂本 1944年4月2日です。父は1941年3月早稲田大学を卒業し翌年2月に招集があり輜重兵として第37連隊に入隊を命ぜられました。門司港から釜山港に渡り山西省に展開していた部隊に着隊、以後幹部候補生として教育に臨み43年4月原隊に曹長として復帰しました。

12月少尉に昇進。44年3月独立歩兵第14大隊に転属し上海を出港しました。着いたのは沖縄県那覇港。ここで、沖縄戦守備隊の先遣隊員として上陸したことを知ります。

以後、7月から9月にかけて大量動員される沖縄守備隊本隊【沖縄本島(第九師団、二四師団、第六二師団)、宮古島(第二八師団、独立混成六〇旅団、同五九旅団)、石垣島(独立混成第四五旅団)、大東島(歩兵第三六連隊)】の受け入れ準備に奔走しました。

開戦後は本隊に所属し一般住民と共に最後の激戦地となる魔文仁の丘まで追い詰められ、そこで敵弾に倒れ重傷を負いました。復員したのは46年3月です。したがって父は住民を巻き込んだ沖縄戦の悲劇全てを目に焼き付けていたのです」

原 沖縄で米軍上陸を迎え撃って、摩文仁の丘での戦いをされたということですから、本当に厳しい戦争体験をされたんでしょうね。

奥崎さんもニューギニアのジャングルの中で泥にまみれ、飢餓や銃撃とも戦ってきたわけですから、お互い感じ合うものが多かったんでしょうね。お父さんが奥崎さんと出逢ってから亡くなるまでの時間はどれぐらいあるんですか?

原一男/1945年、山口県生まれ。東京綜合写真専門学校中退後、72年、疾走プロダクションを設立。同年、『さようならCP』で監督デビュー。87年、『ゆきゆきて、神軍』を発表。大ヒットし、日本映画監督協会新人賞、ベルリン映画祭カリガリ賞、パリ国際ドキュメンタリー映画祭グランプリなどを受賞。近作に『れいわ一揆』『水俣曼荼羅』など
原一男/1945年、山口県生まれ。東京綜合写真専門学校中退後、72年、疾走プロダクションを設立。同年、『さようならCP』で監督デビュー。87年、『ゆきゆきて、神軍』を発表。大ヒットし、日本映画監督協会新人賞、ベルリン映画祭カリガリ賞、パリ国際ドキュメンタリー映画祭グランプリなどを受賞。近作に『れいわ一揆』『水俣曼荼羅』など

坂本 1966年4月1日、父は大阪刑務所の管理部長として赴任しました。着任早々は受刑者と面接する時間はありません。余裕ができるのは早くても3ヵ月後ですね。

したがって面接したのは6月中旬だと思います。母の話では6月半ばから不眠が続いていたとのことです。大阪労災病院に入院したのは7月に入ってすぐでした。死亡(自死)したのは8月10日ですから2ヵ月弱です」

 自死された原因はそれだけではなかったかもしれませんが、ニューギニアと沖縄、お互いの戦争についての話をされる中で、奥崎さんが発した言葉からかなり大きなインパクトを受けたということでしょうか。

立場は受刑者と刑務官でありながら、部下を死なせてしまったという思いを封印していた元軍人に対して大きな影響力を持っていたのは事実ですね。お父さんと奥崎さんは天皇についても話し合われていたんでしょうか。

坂本 父は法務本省で11年余り要職についた経験があります。当時、上司から中央官庁につとめる役人は保守政党の支持でなければ問題だ! と言われたそうですが、父の社会党支持は揺るぎませんでした。

悲惨な戦争体験があったから野党への思いが強かったのだと思います。奥﨑さんと昭和天皇の話し合いをしたこというご質問ですが、父は天皇制に対する意見を述べたのではないかと思います。

ただ、ニューギニアと沖縄戦の体験談は盛り上がったのでしょう。第3区事務所内の調査室での面接は一般的には、せいぜい30分のところ父との面接は4時間にも及んだというのですから、波長がぴったり合ったのだと思います。

原 奥崎さんには、ひとつの行動パターンがあってね。自分のことを認めてくれる人、自分のことを評価してくれる人にはその人のことも評価してすごく丁重に付き合うんです。それは一貫してそうだった。

だから刑務官の中にもいろんな人がいるんでしょうけども、きっとお父さんとは、認め合われたんでしょうね。