選手会の背中を押した中日・落合監督

NPBと二度目の交渉となる9月16日、17日の東京での協議・交渉委員会は、一転して最初から対決ムードが漂っていた。

一度目の交渉の後に古田が「近鉄を残せる可能性があるというようなことなので、この2日間はストは決行できないと判断しました」というコメントを記者に話したことが、合併はもう決定済みの事項と考えるNPBのオーナー側を刺激したのである。

古田は謝罪と撤回を求められたが、選手会長として、合併を止めたいと切に願っている近鉄の選手やファンがいる中で早々に方針を切り替えるわけにはいかなかった。

NPB側は冒頭、清武英利・巨人球団代表が「根來コミッショナーからの手紙を預かっている」としてそれを読み上げた。

根來は今回の混乱を憂いて辞任の覚悟をしているという文面であった。

「ストが起きたら自分は辞めるとまで言われている、ここまでコミッショナーは苦しんでいる、君たちは何も感じていないのか」という牽制であった。

しかし、選手たちの気持ちには何も響かなかった。実際、根來はその後もコミッショナーを続け、任期が切れたあとも2008年4月にようやく退いた。

「お前は球界を追放されるぞ」球界再編騒動から21年、古田敦也が振り返る絶体絶命からの反転攻勢_3

逆に古田は「球団を減らして1リーグ制にすることが本当に発展的で未来に展望があるというならば、その典拠となる具体的な数字を出してほしい」とシミュレーションを要求した。しかし、最後まで具体的な数字は出て来なかった。

選手会は引き続き、近鉄・オリックス合併の1年間凍結を求めたが、覆すことはできなかった。議論はやがて、合併を止めることができないのならば、最低限のラインとして12球団を保持するために、新規参入を緩和促進すべきであるという方向に流れていった。

NPBも新規参入を審査することはやぶさかではないと流れになり、ようやく同じ方向に向き始めたかのように思われた。

しかし、最終的に決裂したのは、和解案の文書であった。NPBが出してきた文言は「2005年以降、新規参入の申請に向けて審査する」という趣旨のものであった。

古田は控室に持ち帰り、選手たちと討議したが、審査の時期が翌年「以降」であることと、あまりに曖昧な言い回しに対し、到底これを認めるわけにはいかないという結論に達した。

このときセ・リーグの首位を走っていた中日からは井端弘和がチームの選手会長として来ていたが、「落合監督からは、『もううちの優勝はどうでもいいから、行くところまで行け』と預かって来ています」と事務局長の松原徹に語っている。

落合は井端に「優勝はまたすりゃあいいから、お前はこの仕事を引くな」と念を押してさえいた。

2015年に58歳の若さで没した松原は事務局長として選手に関わる理不尽に対しては真剣に怒るが、その一方で、ファン目線で「球団側が悪い」「NPBが悪い」という単純な図式になってしまう闘争も嫌い「ベースボールファミリーとして交渉相手をただ悪者にしてもいけないんだ」と常々言っていた。

そんな松原はリスクを負った井端の覚悟が嬉しかった。

そしてこの流れの中で奮い立っていたのは、日本人だけではなかった。北海道日本ハムファイターズの外国人選手、カルロス・ミラバルもまた「俺も皆と一緒になって闘いたい。俺も選手会に加入させてくれ」と名乗り出てきたのである。

外国人の場合はその地位が複雑で、万が一、損害賠償請求がされて迷惑をかけてはいけないということで、気持ちはありがたく受け止めながらも、この局面では辞退をお願いするしかなかった。

「ストをやるべき」巻き起こる機運

選手会は、和解案文書について、審査の時期と熱量に関する文言を修正し「球団数を2005年シーズンに向けて増やすよう最大限努力し、新規参入の申請に対して、誠意をもって審査する」と明記するように求めた。

古田の思いは、合併の凍結ができないなら、来季に向けての新規参入への努力を約束して欲しいというものであった。

すでに経営者側が、富を多く分け合うためにとにかく球団数を減らしたがっているのは分かっていた。しかし、入りたいと言う企業がいるのだ。それを好意的に審査するのか、落とすために審査するのかで、未来は大きく変わってくる。

「最大限の努力」という文言を入れる事は譲れなかったが、これは拒否された。

「楽天もライブドアも明確に落とすつもりなのだ」

ここに至って「最大限の」という文言を外すということは11球団にするという意向の宣言に等しかった。清武は選手会控室にやってきて説得に入ったが、選手たちは到底納得ができなかった。

交渉は2時間の延長を重ねて10時間が経過したが、最後まで嚙み合わず、ついに決裂する。

選手会の控室にいた石渡進介弁護士によれば、ストライキ決行の最後の流れは、巨人の高橋由伸によって発せられたという。由伸は交渉の最終局面で控え室に来て合意文書を交渉する清武の姿勢を見て感じていた。

「あれは参入させる気が無いですね」

これでは合意できない。続いて横浜の石井琢朗も賛同した。石渡は述懐する。

「あのときの由伸選手は立派でした。巨人の選手でしたが、自分の保身などまったく考えずに野球界のことを考えて率先して発言していました」

こうして翌18日、19日の2日間にわたって日本プロ野球史上初めてのストライキを行うことが決まった。古田は17日深夜の会見で涙を流しながらファンに詫びた。

労使交渉を終え、日本球界で初となるストライキ決定の記者会見をする日本プロ野球選手会の古田敦也会長(中央)。右はロッテの瀬戸山隆三球団代表
労使交渉を終え、日本球界で初となるストライキ決定の記者会見をする日本プロ野球選手会の古田敦也会長(中央)。右はロッテの瀬戸山隆三球団代表

山崎はこの渦中に古田と1対1で話し合った中で忘れられない記憶がある。

「『たしかにストを行うことの影響は大きい、でも、ストを回避したいという気持ちで交渉をすれば、どうしても大事な場面でそれが弱腰となって出てしまう、交渉に向かって行く姿勢としては、やはりよほどのことがない限りストをやる、という決意で行くしかないと思うんですよ』と私が言ったら、『そうやな。俺も今日、試合しながらそう思っていたんや』と言われたんです。

キャッチャーとして毎試合出てボールを受けながら、そんなことを試合中に考えていたのか、と改めて感銘を受けました」

古田はこのギリギリの局面(2004年9月14日から16日まで)で横浜との3連戦を戦っているが、スイープ(3連勝)を飾っている。

山崎は選手会のオフィシャルホームページに寄せられたファンからのメールすべてに目を通していた。そのほとんどが、「ストをやるべきだ」「延期するような弱腰じゃだめだ」というものであり、ストを決行できるだけの環境は十分整っているとの感覚を得ていた。

ただ、それでも、ストがもたらす影響の大きさを重く受け止め、最大限それを回避すべく強い覚悟と責任をもって交渉する古田の姿を見るに付け、その責任を少しでも軽減するためにできる最大限のことをしたいと考えていた。

「ストをしても選手会に損害賠償責任は発生しないんだよな?」と古田から繰り返し聞かれたことに対して、「はい、ありません。そこについては、私が責任を持ちます」と断言したのも、そうした気持ちの表れであった。

選手会の事務方もまた8月の下旬から昼夜を問わない激務の中に身を投じていた。日本では先人の誰もがまだやったことのないプロ野球のストライキである。

いざ決行となった場合、練習や、遠征先での振る舞いはどうするのか? 事務局は短時間の間に「ストライキマニュアル」という冊子を作成し、12球団の支配下全選手に配布していた。

「ストライキとは」という定義からはじまり、「目的」、「影響」「方法」「スト期間中の練習」に至るまで網羅したもので、「球団数を減らさせない」という明確な意思統一が紙面を介してあらためてなされた。

最も関心が高かったストをやった場合に選手にふりかかる「影響」については、「球団からの損害賠償は絶対にされない」と明記して選手たちの不安を払拭した。

選手会は裁判所に労働組合性を認定されており、今回のストは労働者の権利として日本の法律上認められているのである。

仮処分申請の判決がここで活かされた。また1日あたり300分の1の年俸がカットされるというデメリットもしっかりと記された。

その他、「ストは労務の提供を行わないことが重要なので、球団に指示された練習はしないが、自主的にトレーニングを行うのは、問題が無い」というシーズン中を配慮した説明、遠征の移動費やホテル代を球団から請求されても払う必要はないという法的根拠、「ロックアウト」(=使用者(球団)が争議行為の相手方である労働者(選手)に対して、労務の受領を集団的に拒絶し、又は事業場(練習場)から集団的に締め出す行為)をされた場合のシュミレーションなど、簡潔であるが、ポイントを押さえた事項が16ページに渡って展開されていた。選手たちは迷うことなく、マニュアルを信じてストに向かった。

この啓蒙冊子をたった二人の事務局員(松原、森)と二人の弁護士(山崎、石渡)が短期間で作り上げていた。

「あの頃は戦場と一緒でしたよ」と山崎は言った。

「上官の指示を仰いでいたら敵を倒せない」

事務方のスタッフが、議論を交わす間もないくらいに忙殺されており、連絡を取っていたら、前に進まないのでそれぞれの判断でベストの行動をしていた。

事務局のスタッフには確たる信頼関係があったので、古田、松原の決裁を仰ぐ必要が無く、ストの準備に向けてもそれぞれの裁量で動くことが出来たのである。

古田がストを決意するにあたっては、大きな反対や風当たりもあった。

「お前は球界を追放されるぞ」というような声も球界の重鎮から投げかけられた。理解者と思っていた選手会のOBからも「ストはするな」という圧力の電話がかかってきたこともある。

しかし、ふたを開けてみれば、テレゴングなどのアンケートで回答者は9割以上がこのストライキを支持した。圧倒的な世論の後押しによって空気は完全に変わった。