“オレ流”落合との交渉で苦労しただけに… 

伊藤は中日ドラゴンズの親会社である中日・東京新聞の元社会部長であった。中日新聞からドラゴンズへの出向は、本社の出世コースから外れたことを意味するとよく言われる。

しかし、まがりなりにも社会の公器に携わる新聞記者の属性として、公正性や選手の権利というものに関心が高い球団役員がいることは球界にとっては悪い事ではない。

これは中畑清がやはり読売新聞社会部長出身の長谷川実雄代表を「じっちゃんは選手の気持ちや立場が分かってくれていた」と評していたことからもうかがい知れる。

そして伊藤が球団代表の任に就いていた頃の中日は星野仙一の第一次政権時代であった。伊藤はオレ流・落合博満とこの剛腕監督の間で常に調整役として奔走していた。

落合の星野に対する造反事件(1989年自主トレ中に「現役時代は適当にやっていた人ほど監督になるとやれやれと言う」と批判発言)では、三冠王を監督の自宅までつきそって謝罪と和解を取り持った。

1990年オフには、落合の契約交渉が決裂し、オレ流は日本人初の年俸調停を申請するのであるが、その球団側の交渉相手にもなっている。

これは落合自身が後に「予定内の行動」と打ち明けているが、調停という初めての制度がどんなものか、最初からから実験的に行使を決めていたものであった。いわば決裂は予定調和の茶番であったが、そこに至る二度の事前交渉に伊藤はざわざわつきあっている。

ひたすらわが道だけを主張する落合の契約交渉で長年苦労してきた伊藤からすれば、選手全般のことを念頭において会長として聞く耳を持って折衝に臨んで来た岡田には感じるものが多くあったのであろう。

現在は阪神球団の顧問となっている岡田が32年前の経緯の記憶を語り出した。

岡田彰布氏(写真/産経新聞社)
岡田彰布氏(写真/産経新聞社)

岡田「そうそう。何でかね、中日の伊藤さんが選手関係委の委員長で俺のことを結構、買ってくれとったのよ。最初はそんなに接点も無くて、いつも交渉事は銀座のビルの2階の連盟(NPB)の事務所へ行っとったけどね。

俺がゲームで名古屋行く度に伊藤さんから『僕はもう岡田君好きやからね。都ホテルに行くから二人だけでやろう』と言われて、(選手会事務局の)大竹(憲治)や松原(徹)、山口(恭一)さんらにも地下街の別の喫茶店で待ってもらっとったんよ。

事務方は話の内容は知らない。そやからFAは俺ら二人で決めたと言っても過言ではない。あれはたくさんの人数で話し合っていたら、成立していないよ」

どんな交渉事も最後は人である。この相手が信頼できるかどうか、虚心坦懐に対話をするには、1対1が基本であり、その結果、伊藤は岡田が会長のときに決め込むことでFAという制度が有意に進むと考えた。

岡田も取得年数などの細かい事案よりもまずはFAという革命の成就に重きを置いていた。重い扉が今まさに開かれようとしていた。

後編に続く)

文/木村元彦