革命を決定づけた岡田彰布と中日球団代表の会談 

当時の阪神タイガーズの中日戦遠征時の常宿は都ホテルであった。

この宿泊施設の地下には、当時、名古屋駅地下街のイメージにはそぐわない静かなカフェがあった。その場所に岡田彰布を頻繁に誘う人物がいた。中日ドラゴンズ球団代表伊藤潤夫である。

阪神のクリーンナップと中日のフロント幹部という異色の組み合わせはしかし、ソファに腰を下ろすときは、その関係が変わり、プロ野球選手会会長とNPB(日本プロ野球機構)選手関係委員会委員長の立場での会談となった。

テーマはFA制度の導入について終始した。選手会と機構の公式な折衝は、集団団交も含めてNPBの事務所か、ホテルの会議室で事務方も含む複数で行われる。

しかし、伊藤は最初の会談で岡田との面識が出来ると、それ以降はこの阪神の主力との1対1の交渉を望んでいた。

「来週、ドラゴンズ戦のナイターに出る前にちょっとそこで会おう」

機構側との話し合いということで、大竹憲治事務局長なども同席しようとしたが、伊藤はそれを拒んだ。それどころか、球団側、つまりは機構側である阪神の沢田邦昭球団代表に対してまでも「沢田君も悪いが、外してくれないか」と二人の空間に立ち入ることを良しとしなかった。

都ホテルの独立したカフェで伊藤潤夫と岡田彰布は向き合い、何度もテーマについて語り合った。FAの意義、選手にもらたすもの、球団における影響…。伊藤の問いかけに対して岡田はじっくりと聞き入った。

写真はイメージです
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その上で整然と答えを返し続けた。交渉というよりも確認と合意の形成をもたらした対話はやがてひとつの方向へ向かって動き出していった。

伊藤はこの頃、非公式ながら、周囲の地元紙記者たちに「阪神の岡田は常識人できちんとした話し合いが出来ている。彼は信頼が置ける」と漏らしている。

何度目からのカフェ会議でついに伊藤は感じ入ったように本音を吐露した。「分かった。僕の責任においてFAをやる」「えっ、そうですか」言質を取った岡田はすぐに選手のたむろするホテルのスペースに戻ると「FAいけるでーっ!」と報告した。これを聞いた選手たちが盛り上がったのは、言うまでもない。

FA導入について機構側の動きを見ると、岡田が就任する年のはじめに第三者の外部委員を含めたFA問題 等研究専門委員会が設置されていた。

同委員会は1992年 4 月16日から約 1 年間、計16回に渡って開かれている。NPB内部での活発な議論は、機構側の軟化のタイミングと受けとめられているが、興味深いのが、肝心の交渉についてである。選手と機構の担当が他に人を介さずに行ったサシの会談を重ねて事態が動いた。

伊藤はなぜ、岡田とだけ話をしたがったのか。この球団代表のキャリアをさらってみるとその人物像から、理由がおぼろげに見えてくる。