書籍流通の仕組みが「書楼弔堂」の主人公
――「書楼弔堂」は明治期の出版が現在の形になって終わるところまでを描いた大河小説です。最終巻『霜夜』は活字をテーマにされることはどの段階で決められましたか。
京極 最初からです。最後はそこだろうと。活字離れっていうじゃないですか。でも今は印刷に活字なんか使ってないんですよ。出版社の人は初校のことを慣例的にゲラって言いますけど、ゲラ箱(活字の組版を置く容器)なんてないですからね。ゲラも蜂の頭もないでしょうに。あれは初校データでしょ。出版人は、今でもその頃の言葉をぼーっと使っている。逆に言えば、それだけ後世に長く尾を引く、文化的な革命だったわけですよね。だから活版印刷って基本だよなという気持ちはあって。活字の元になる字を描く仕事を選びました。鳥海さんにお訊 ねしたいんですけど、フォントって単体ではなくて、文に組んでどうかというところが大きなポイントですよね。
鳥海 もちろん。組んでみて何度も直します。以前某社の電子書籍で使う書体を作ったとき、京極さんにご意見を伺ったんですよ。そこで駄目出しをされた部分が自分でも迷っていたので、言われて改めて腑に落ちました。直してお見せしたら「よくなりましたね」と。
京極 お前何様か、というぐらい偉そうな言いようでしたね(笑)。
鳥海 そういう正直な意見を言ってくださるのは文字を作る側として本当に嬉しいです。あれはひらがなで、たしか組合せによって流れが止まって見えていた筈です。
京極 どれだけの情報をどのぐらいの時間で摂取できるか考えたとき、一行のストロークというのは大事で、上から目で追っていっていちばん下まで行くと次の行の上まで戻るわけで、そこにちょっとしたインターバルがある。そうした運動を阻害する文字ってあるんです。わざと使うこともあって、たとえば漢字の画数が多いやつなんかは、確実にそこで目が止まります。でもひらがなは、視線が流れてくれないとリズムが悪くなる。あのときは、見せていただいた中にリズムを壊しかねない形があった。繋がるだけじゃなくちょっとした空白もできる。そこでもたつくのは癪 なので改良したほうがいい、と申し上げたと思います。
鳥海 そういう具体的な指摘だと、直せるんです。以前、「明朝体の教室」というものを阿佐ヶ谷美術専門学校で数年やりました。まとめたものが本にもなっています(『明朝体の教室』 Book&Design 、二〇二四年)。話の相手役を書体史研究家でありタイプデザイナーでもある小宮山博史さんとブックデザイナーの日下潤一さんにお願いしたんですけど、自分が気づいていなかったことをご指摘いただいて助かりました。あと、字游工房で作った文字と他社のものとを見比べてみたんですよ。比べてみると他社のものもよかったりする。うちのはあまりにも綺麗で癖がない。どっちがいいんだろうって考えたりとか。そういった比較をやると、自分たちがやってきたものへの反省もできますよね。
京極 私はよく、タイポグラフィの人なの、とか、デザイナーだからそういうことをやるの、とか言われるんですけど、デザインとして美しいものと読みやすいものって全然違うんですよ。デザイン用の書体というのは、本文では使えない。写植の時代からデザイン書体は多く作られてきましたが、本文書体のバリエーションって実はすごく少なかったですよね。それを鳥海さんは作ってくださった。
鳥海 私はこの仕事を四十七年続けてますけど、本文書体を自分の軸にしたいと考えています。一本の木に書体の世界をたとえるなら、本文書体こそが幹なんですね。デザイン書体は枝葉です。だからデザイン書体がいくら増えても、木は枯れます。
京極 本当にそのとおりですね。今は鳥海さんたちのご尽力で太い幹が何本か生えてきている。ようやく森になりつつあります。その転換期の現場に立ち会えたというのは僕にとって嬉しいことでした。でも、とても大事なお仕事であるにも拘わらず、ほとんどの人は「この書体はいいね」なんて理由で本は選ばないんですよね。字がいいから気持ちよく読めるんだということがわからないわけですから。
鳥海 そりゃ、そうです。だってわからないことがいいんですもの。
京極 これは俺の字だ、っていうのを見せられるより、むしろ文字なんかないんだ、ってくらいの気持ちになるくらいの本文書体が素晴らしいということですよね。
鳥海 今回の『霜夜』は第一話に(夏目)漱石が出てきますよね。それで「活字はいいよね」と漱石に言わせている。
京極 はい。その結果、種字職人からは君の字は自己主張がないのが素晴らしい、とも言われるようになる。
鳥海 私は学生のときに先生に連れて行かれて毎日新聞社を見学したんです。そこで活字を作ってる人を初めて見たんですよ。当時は文字にそんな特別な意匠があると思っていないので、カルチャーショックを受けました。そうしたら案内してくれた人が、文字は水であり、日本人にとっての米である、って言ったんですよ。私はその言葉を聞いて一瞬でこの仕事をやろうって決めたんです。それから四十七年ずっと「水のような、空気のような書体」を追い続けています。
京極 良いお話ですねえ。話は変わりますが、以前、北斎の浮世絵のレプリカを版木から作ってもらったことがあります。綺麗に刷り上がったんですけど、見る人が見るとこれは駄目だと。墨の主線が紙に刷り込まれていない、載っているだけだ、って言うんですね。なぜかといえばバレンが違うんだろうと。もう材料がなくなってしまって以前とは違うバレンしかないそうなんですけど。その昔は、彫師とは別に刷師もいた。刷るだけで商売になっていた。それは現在で言うところの印刷屋さんですよね。彫師、刷師が職人として存在していたのが、技術の変化で機械さえあれば刷ることができるから不要になった。そこは興味深いところです。
鳥海 時代が進むとなくなっていくものや技術はありますね。今は Illustrator のようなツールの画面でアウトラインを作っていきますから、線をまっすぐ引くことは子どもでもできる。文字は綺麗に作れるんです。
京極 分度器とか三角定規、はては雲形定規なんかも消えてしまいました。
鳥海 そういう道具を使って継承されてきた技術は消えましたね。例えば明朝体の右払い、左払いのカーブは、初心者には書けなかったんですよ。それを何度も修正していくと、紙の上に白いポスターカラーが積み重なっていきます。これ以上、できませんって音を上げると、先輩が綺麗に直してくれる。そこで学ぶこととかね。
京極 覚えがあります。一方で初心者でもごまかしがきく字もありますよね。
鳥海 「鬱」みたいに画数の多い漢字は比較的易しいです。つぶれないようにすればいいんだから。問題はひらがなですね。漢字は四角い枠の中に書くけど、ひらがなは一応枠は準備するものの、本当はどんな形で書いてもいいんです。基準がないので、非常に難しい。
京極 『霜夜』には、レタリングも何もやったことがない男がそこに思い至る、という話を入れてみました。彼は何しろ活字自体になじみがなかったわけだから、ゼロからそこに到達するわけですが。