アナログじいさんが、YouTubeを
見られるようになるまでの話です

急激なスピードで近代化が推し進められた明治、書物をとりまく状況も大きく変化していた。古今東西の書物がぎっしりと並んだ書舗・弔堂を舞台に、人と本の関係を鮮やかに描き出す京極夏彦さんの人気シリーズ「書楼弔堂」。第三弾となる明治三十年代後半を舞台にした最新作『書楼弔堂 待宵』では、反骨のジャーナリスト・宮武外骨や『半七捕物帳』の生みの親・岡本綺堂、若き日の竹久夢二など、多彩な人々が弔堂を訪れます。それぞれに葛藤を抱えた彼らは、どんな本との出会いを果たすのか。ますます好調の京極流明治小説についてうかがいました。

聞き手・構成=朝宮運河/撮影=chihiro.

アナログじいさんが、Youtubeを見られるようなるまでの話です 『書楼弔堂 待宵』京極夏彦インタビュー_01
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主役は本の流通、語り手は明治時代の読者

―― 明治時代の書店・弔堂を舞台に、人と本の数奇な縁をさまざまな形で描いた「書楼弔堂」。シリーズ第三弾『書楼弔堂 待宵』の舞台は明治三十年代後半です。シリーズ開始当初(明治二十年代)に比べると、本をめぐる状況が現代に近づいてきましたね。

 一般庶民が本を買って読めるようになったのってそう古いことではなくて、明治の中頃くらいからでしょうか。それまでは本といえば家々を回る貸本屋から借りるものだったわけで。明治も三十年代になると、それまで未分化だった書店と取次と出版社がやっと分離して、新刊書籍が手に入れられるようになってきます。とはいえ今のようにネットで買えるわけでもないし、新刊書店がどこの町にもある時代でもないんですね。むしろ新刊じゃない本のほうが多いんだけど、でも古本屋はまだない。そのくらいの時代です。字の書いてあるものなら何でも並べている弔堂は、当時としてはかなり異常な本屋なんですよ。

―― 今回語り手を務めるのは、甘酒屋を営む老人・弥蔵。過去に囚われ、新しい価値観に心を閉ざしている世捨て人のような男です。

 このシリーズは本を扱っていると思われがちなんですけど、主役はあくまで「本の流通」なんです。そして語り手になるのは、これから「読者」になっていく人たちという位置づけですね。一巻目は自由民権運動をがんがんやって世の中を変えていこうぜ、という波からはじかれてしまったぼんくらな人で。そういう人だって、おそらく本は読んだだろうと。二巻目は女が本なんか読むものじゃないと言われる風潮に対して、表だって声を上げられるわけじゃないけど、なんだか納得がいかないなと感じている女性。そして今回は、新時代が嫌いなわけじゃないけど全然好きになれない、という頑固な年寄りですね。今でもいるじゃないですか、テレビはブラウン管がよくて、電話はダイヤルじゃなくちゃというお年寄りが。喩えるならそういうじいさんが、スマホを使ってYouTubeを見られるようになるまでの話ですね。

―― 本と人の関係といえば、作中に電車内で大勢の人が本を音読している、という印象的なシーンがあります。

 そうですね。この頃の電車の中って、みんなが音読していてうるさかったんだそうです。今と違って、本というのは音読するのが当たり前の時代だったんですね。そういうことを私たちはまるで知らないんだけど、それまで書物に触れる機会のなかった人たちが読者となってくれたおかげで本が広く普及したんだ、という経緯は尊重しなくちゃいけないと思うんですね。僕らが小説家や編集者やライターという仕事に就いて、こうやって飯が食えているのも、そうした名もなき先人たちのおかげなわけで。本の流通を描こうとするなら、そういう読者の歴史に目を向けないと駄目なんじゃないかなとも思います。

いくら本を読んでも人は変わらない

―― そんな弥蔵老人に案内され、弔堂には近代日本を彩ったさまざまな著名人たちがやってきます。ゲストキャラクターの人選は毎回どうやって決めているのでしょうか。

 毎回大物ゲストがやってくる、いってみれば『徹子の部屋』スタイルですよね。テレビの場合ゲストとして面白い人物、視聴率の取れそうな人という条件があるんでしょうけど、それよりも、いろいろな職業の人を扱いたいなというほうが先んじていて。ともすると小説家ばかりになりがちなんで、それもつまんないでしょう。ただ残念だったのは今回、女性が一人もいないんですよね。ジェンダーバランスはできるだけ取りたかったんですけど。集英社の編集者さんにもリクエストを出してもらったんですが、この時代の女性でうまくはまる人がいなくて。それに語り手が汚いじいさんでしょう。この時代の老人ですから、ジェンダー差別にあたるような発言をしかねないですからね(笑)。結局、どこかの会社の取締役会みたいに男ばかりになってしまいました。

―― 冒頭のエピソード「史乗」に登場するのは、平民主義で知られるジャーナリストの德富蘇峰。日清戦争後、国家主義に傾いたことで批判を浴びた彼は、ある本を求めて弔堂にやってきます。戦争にどう向き合うかという問題は、現代にも通じるところがありますね。

 このシリーズに今の世相を反映させているつもりは、これっぽっちもないんです。「史乗」を書いたのなんて約七年も前ですから、昨今の国際情勢なんて反映のしようもない。ただ明治時代に起きることって、妙に現代と通じているところがあるんですよね。つくづく人類は進歩しないんだなと思いますね。德富蘇峰という人はもともと反戦派だったんですが、この時点では好戦派に転じて、非難を受けているわけですよね。戦争がいいか悪いかといったら当然よくはないんだけど、じゃあ具体的にどうすればいいのかといえば、国民は分からないわけですよ。はっきりしたイデオロギーを持っている人以外は、分からないというのが本音でしょう。分からないんだから、真ん中でごちゃごちゃ話し合って、迷いながら決めていくしかない。でもつい二極化しがちじゃないですか。そういう分断は建設的じゃないし、よくないですよね。

―― 第二話「統御」のゲストは作家の岡本綺堂。後に捕物帳や怪談、劇作で名をなす綺堂とはどんな人物だったのか、弥蔵や弔堂主人との対話を通して、浮き彫りになっていきます。

 岡本綺堂といえば『半七捕物帳』、という人が多いんだけど、そこだけ切り取っちゃうのはどうなんだろうと。怪談の人だという見方もありますが、それだけでもすくい取れない。そもそも半七は和製シャーロック・ホームズと言われるくらいですから理性の物語で、怪談というのは理性の外側の物語ですよね。さらに言うなら『修禪寺物語』は情念の物語ですよ。全部違ってる。でも矛盾はない。どうなってるんだろうと。随筆なんかを読むと、この人、文句ばっかり言ってるのね。気難しいというか、きちんとしてるんです。世の中の不整合が我慢ならない。だから理性ですぱっと割り切れるような話を書く。でも世の中は不条理だとイヤというほど知っているから怪談も書ける。綺堂研究家じゃないので何の保証もないですけど、実作者として感じたのはそういう面で。

―― 店を訪れた客たちが弔堂の主人から〈一冊の本〉を買う、というのがこれまでのパターン。しかしこの巻はそこから外れた回も多いですね。たとえば第三話「滑稽」に登場する反骨のジャーナリスト・宮武外骨は、お金に困って弔堂に本を売りにきています。

 これまでの巻を読んでくださっている方は、どうせまた店のおやじが決め台詞を言って、本を売りつけるんだろうと思って読んでるはずで。だったら「あ、売らないんだ」という回も入れておこうかなと。決め台詞といえば東映の時代劇ですけど、『暴れん坊将軍』のおなじみのパターン、「余の顔を見忘れたか?」に対して「いえ、覚えてますが何か」と答える回があったら印象に残るじゃないですか(笑)。まあ一般にある程度本が行き渡ったからこそ売る・買うという仕組みも出来たわけですからね。この時期にこういうエピソードは要るだろうと。
 そもそも本を読んで人生が変わったとか、救われたという話はよく耳にしますが、そんなことはないですよ。読書で人間は変わりません。このシリーズに出てくる人たちは、本なんか読まなくてもちゃんと自分の人生を送れているんです。店主の言う「あなたの一冊」って、たぶんそういうものじゃない。本は出口とかきっかけじゃないんですよ。だから本との出会いで人生が変わったとか、歴史が動いたという展開にすると、実に噓臭い話になる。それは絶対やめようと思っていました。

江戸と明治はシームレスにつながっている

―― 新しくなった近所の銭湯に出かけた弥蔵が、画家志望の青年と知り合いになるのが第四話「幽冥」。単身東京に出てきたという彼は、後に竹久夢二として美術史に名を残すことになります。

 竹久夢二って、絵はみんな知ってるんでしょうけど、人間も面白いんですよ。郷里の岡山から家族で福岡に越して、そこから逃げるように東京に出てきて、その後次々と恋に溺れていく(笑)。ちょうどこの時期は何をやっていたかよく分からない空白期なんで、勝手に作ってしまいました。夢二は反戦運動に傾倒していたらしいのでビラ貼りの手伝いくらいはしただろうと。風呂屋を舞台にしたのは、あまり裕福じゃない庶民の生活感を出しておきたかったからですね。
 面白いといえば、風呂屋さんの歴史も、本屋さんと同じくらい面白いんですよ。まあ、どんな業種でも、発祥、変遷、隆盛から衰微と追い掛けていけば興味深いものなんですけども。事実は小説より何とやらといいますが、ノンフィクションのほうが面白かったりしますしね。僕の小説は噓ばっかりか、せいぜい虚実ない交ぜなわけですが、このシリーズは「実」の組み合わせで「虚」を生み出しているようなところがあるかもしれませんね。

―― 第五話「予兆」に出てくる寺田寅彦は、物理学者で夏目漱石門下の文人です。しかしこの当時は帝国大学(東京帝國大學理科大學)の学生。離れて暮らす妻の病気に心を痛めつつ、知的好奇心を失ってはいません。

 寺田寅彦って早くから完成していた人みたいなので、辛気くさい甘酒屋のじじいがごちゃごちゃ言うような隙はないんですよね。ただ転機めいたものがあったとするなら、やはり若くして伴侶を亡くしたことは大きいだろうと。学生結婚ですからね。奥さんが亡くなって寺田は大いに悲しんだんだと思いますが、だからといって打ちひしがれて、何も手につかなくなるというタイプではない。目の前に興味深い事象があれば食いついただろうと。個人的には金平糖の実験の逸話がとても面白かったので、「物理学者の卵が甘酒屋のじじいの前で金平糖を食う」というかなり無理筋な場面を作ることになってしまいました。

―― この寺田が気にかけていた謎の老人が、最終話「改良」の布石になっていますね。「改良」で弔堂を訪れるのは、幕末の動乱で大きな役割を果たしたあの人物。弥蔵が目を背けてきた暗い過去とも、関わりを持っています。

 僕は以前、『ヒトごろし』(上・下/新潮文庫)という幕末が舞台の作品を書いたんですが。甘酒屋のじじいはその時代を生きているんですね。極端に地味なスピンオフキャラ(笑)。随所でそれらしい回想シーンが入るので勘の良い方は割とすぐに正体に気づくと思うんですけどね。僕の小説はどっかで他の作品にリンクしてるんですが、今回は『ヒトごろし』です。舞台は明治になって三十年以上経ってますが、言い換えればたった三十数年前が江戸時代なんですからね。令和に対しての昭和程度ですよ。江戸を覚えている人もたくさん生きている。我々は元号が改まるとつい、時代がすぱっと切れて新しくなったように思いがちですが、そんなことはないんです。今でも「昭和っぽい」と言われるものが平成生まれだったり大正時代の話だったりするでしょう。時代って非連続ではなくて、シームレスにつながっているものなんだろうと思います。

肯定と否定を共存させる「均せば普通だ」

―― 「改良」で弥蔵は自分が過去に行ったことと、それによって生まれた明治という時代について、あらためて向き合うことになります。

 幕末って、日本が勤王派と佐幕派に分かれて戦ってたわけで、必ずどちらかの立場を取らなければいけない時代だったでしょ。でも市井の人たちはどうだったのか。明治維新の結果、国がよくなったのか悪くなったのかなんて正直分からないですよ。文明開化はすばらしいという人と、江戸の時代が懐かしいという人に二極化しがちだけど、それもどうなんだと。昔は酷かったけど今だって酷い部分はあるし、昔にも今にもいいところはある。
 僕は以前『虚言少年』(集英社文庫)という馬鹿な小説を書いたんですが、当時の担当が作中から「均せば普通だ」という文章を抜き出して帯にしたんですよ。すごくいい言葉だなと思ったら自分で書いてて驚いた(笑)。多様性の時代に「普通」という言葉を使うのはどうなんだとも思いますけど、山と谷を均せば平らになるわけで、「均せば普通だ」というのは肯定と否定を共存させるということですから、多様性を退けるもんじゃない。そのへんは『書楼弔堂』にも受け継がれている気がしますね。

―― 弔堂でのさまざまな出会いを経て、弥蔵の人生は少しだけ変化する。その後、彼がどんな人生を歩んだのか気になります。

 一巻目から共通していることですが、このシリーズの語り手には「俺」とか「私」といった一人称がありません。自分は自分なんだということをどこかで見失っているんです。本作の老人はべらべらと語るんだけど、自分が発した言葉なのに、なぜか自分にだけ届いてない。これは、「あ、それは俺か」というところに行き着くまでの話なんですね。ラストで弥蔵にどんな本を与えるかは珍しく考えたんですが(笑)。旅行案内本なんかが出始めた頃だし、それもいいかなと思ったんですけどね、ハードボイルドなじいさんに感傷旅行は似合わない。結局、あのような結末にしています。あのじいさん、意外にその後も長生きしたんじゃないですかね。

―― 夜明けを意味する『破暁』、真昼を意味する『炎昼』、そして夕暮れ時の『待宵』と書き継がれてきた「書楼弔堂」シリーズ。次回作はいよいよ夜が訪れるのでしょうか。

 ええ。いよいよ明治四十年代ですから、明治の終わりで夜ですね。時代に弾かれた男、時代に背かれる女、時代について行けないじじいとつないで来たので、次は時代を支えようとする人の話にしたいですね。具体的には「書物を作る」人の物語になる予定です。これまで社会不適合者ばかりでしたが、やっとちゃんと働いている人が出てくる(笑)。もちろん、最初に言った通り「本の流通」が主役になるんですけど、誰かが作らなきゃ流通もしないですからね。と、いっても出版社の話ではありません。単に「もの」としての本を作っている人の話ですね。中身がどうであれ、印刷し製本しなければ本はできませんから。そうした技術の変革があって、それがイノベーションのようなものにつながっていくわけで、明治期の出版ってまさにそういう時期だったわけですから。
『破暁』と『炎昼』の間が三年空いていて、『炎昼』と『待宵』の間が六年なので、四巻目までは十二年空けるのが綺麗なんだけど(笑)、そうすると関係者がみんないなくなっていそうですから、書けるタイミングで続きを出したいと思います。

書楼弔堂 待宵
京極 夏彦
アナログじいさんが、Youtubeを見られるようなるまでの話です 『書楼弔堂 待宵』京極夏彦インタビュー_02
2023年1月6日発売
2,310円(税込)
四六判/520ページ
ISBN:978-4-08-771820-1
舞台は明治30年代後半。鄙びた甘酒屋を営む弥蔵のところに馴染み客の利吉がやって来て、坂下の鰻屋に徳富蘇峰が居て本屋を探しているという。
なんでも、甘酒屋のある坂を上った先に、古今東西のあらゆる本が揃うと評判の書舗があるらしい。その名は “書楼弔堂(しょろうとむらいどう)”。
思想の変節を非難された徳富蘇峰、探偵小説を書く以前の岡本綺堂、学生時代の竹久夢二……。そこには、迷える者達が、己の一冊を求め“探書”に訪れる。
「扠(さて)、本日はどのようなご本をご所望でしょう――」

日露戦争の足音が聞こえる激動の時代に、本と人とのを繋がりを見つめなおす。
約6年ぶり、待望のシリーズ第3弾!
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