人気絶頂期にボーカルの意向で解散

1998年4月にメジャーデビューしたD-SHADEは中高時代の同級生ら4名で結成され、インディーズ時代から10代とは思えない作曲能力と演奏力の高さで人気を博した。

デビューシングル『BELIEVE』はナインティナインの冠番組「ナイナイナ」の、セカンドシングル『ENDLESS LOVE』はMAXが主演を務めたドラマ『スウィートデビル』の挿入歌となるなど、デビュー当初から大きく期待されていたことがわかる。

同バンドでドラマーを務めたYUJIこと秋好祐治氏は、幼少期からさまざまな病を抱えながらも、今なお精力的に活動を続けている。

その原動力はどこにあるのか。D-SHADE時代の知られざるエピソードから、現在の活動まで、その波乱万丈な半生に迫った。

――なぜ、人気絶頂で解散することになったのでしょう。

秋好祐治(以下、同) それはボーカルのHIBIKIが別の道に進みたいって言い出したからですね。僕らメンバーは何度も止めたし説得したけどダメでした。

秋好祐治氏
秋好祐治氏
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 ――解散後、秋好さんはどういう活動をしていたのですか?

東京での暮らしが嫌になり川崎のアパートに引っ越しました。稼ぎが途絶えたんで、寝る間も惜しんでバイトを何個も掛け持ちし、ドラムの練習をしてました。

“トラ”っていう、業界用語で言うところの代役的な仕事を何度もしました。実はバンドの中には実際に演奏してないドラマーがいて、その方の代わりに僕がステージの脇でドラムを叩くのです。

ドラムを叩く秋好祐治氏
ドラムを叩く秋好祐治氏

 ――なんと! そんな役割があるんですか。実は有名なバンドのドラマーが演奏してなかった、なんてパターンもあるんですね。

はい。ドームで演奏するクラスのバンドさんでも、そういうケースはあります。D-SHADEを辞めた後が一番謙虚に練習を積み重ね、どんな仕事もありがたくさせていただいてました。

バイトも練習も寝ないでやってたんで、無理がたたって25歳で髄膜炎になり、2週間意識不明の重体になりました。