残された家族を護り抜く

曽我部家は10人兄妹。勲は八男で、六男の隆二飛曹だけでなく、次男の光雄(享年29歳)と三男の秀民(同25歳)、七男の寿(同18歳)も海軍へ進み、3人全員が散華した。

長男と四男、五男は陸軍への道を選び生還している。

勲が戦時中の体験をふり返り、涙をにじませながら、こう言ったのを忘れることができない。

「隆が20(1945)年4月11日に戦死して、8日後の19日に寿が亡くなった。西条市が市葬をしてくれたのですが、うちは隆と寿の2つの箱を持って行きました。白木の箱と言っても幅、高さが15センチぐらいのボール紙の箱。

寿の箱には遺骨が入っていましたが、隆の方は『曽我部隆』と書いた紙1枚だけでした。1軒の家からいっぺんに2つの白木の箱というのは、近所では例がありませんでした。15歳のわしは寿の白木の箱を持って行きました」

写真はイメージです
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勲の自宅を訪ねると、「神雷」と書かれ、日の丸が染められた鉢巻きと隆二飛曹の遺影が額に入れられ、居間に飾られていた。

「隆が茨城の鹿島で訓練をしているとき、世話になっていた下宿のおばさんから『元気で○○に行った』と手紙を貰いました。何も書いていませんでしたが、○○は鹿屋を指していたのでしょう。それに手紙には(隆は)『会わない方がいい』と言って(鹿屋に)行きましたと書いてあったそうです。

このおばさんには色々なことを話していたみたいです。本人は、兄弟が多いから、自分1人ぐらいは死んでも大丈夫だろうと思っていたみたいです。このおばさんは、遺品となる短剣と鉢巻きと歯ブラシと洗面具を送ってくれました。ところが、小包には穴が開いていて短剣だけがなかったです。誰かが取ったんでしょう」

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4人の息子を戦争で失った父親の末蔵は、昭和53年に亡くなった(享年86歳)。

戦争当時50歳代だったが、息子4人が戦死したことに愚痴を言ったことはなく、気丈に振る舞っていたという。末蔵の妻は昭和13年、長女を産むと病気で亡くなった。勲が8歳の頃だ。

妻に先立たれ、4人の子供を戦争で失いながら、挫折せずにいた末蔵の苦労はいかばかりだったか、勲は言う。

「母親は乳飲み子を残して亡くなったから、父親は苦労したと思います。母親が生きていたら、気が紛れただろうに」

気丈に過ごしていた末蔵も、寄る年波か、寂しさからか、だんだんと酒の量が増え、80代になるとすっかり足腰が弱くなっていった。

戦争が終わってから33年間、「1人で耐えて生き抜いた父の気持ちを考えると、私は血の小便をしてでも家を護ろうと誓いました」と勲は言った。

文/宮本雅史

『「特攻」の聲 隊員と遺族の八十年』(KADOKAWA)
宮本 雅史
『「特攻」の聲 隊員と遺族の八十年』(KADOKAWA)
2024/10/4
1,870円(税込)
288ページ
ISBN: 978-4041150467

彼らは私たちに何を遺したのか? 特攻隊員たちの声なき声に耳をすます

【「エンジンのついた爆弾」で飛んだ男は、戦後三十年、誰にも語らず水道を整備した】
昭和19(1944)年、苦戦を余儀なくされる中で組織された必死必殺の「特別攻撃隊」。大戦中「軍神」として崇められ、戦後は戦争犯罪者と言われた隊員や遺族たちには、胸に秘め続けた想いがあった。
笑顔の写真を残した荒木幸雄、農場経営が夢だった森丘哲四郎、出撃直前「湊川だよ」とつぶやいた野中五郎……自らの命を懸けた特攻隊員たちは、私たちに何を託したのか?  30年以上にわたり元隊員と遺族の取材を続けてきた記者が、今だからこそ語られた証言に耳を澄ます。

最初の特攻出撃を見送った第一航空艦隊副官
「娑婆の未練」を断ち切り二度飛び立った元隊員
沖縄で特攻機の最期を目に焼き付けた女性
晩年、想い人の遺影を病床で握りしめた婚約者
彼らの「戦後」は終わっていなかった――

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