州兵が突きつけたライフルの銃口にカーネーションの花を差した若者
そんなヒッピーの運動、思想、哲学を、最初に全米に拡散させたのが、1967年1月14日に行われた大規模な集会「ヒューマン・ビー・イン」だ。
場所はサンフランシスコの広大な公園、ゴールデン・ゲート・パーク。その日、公園のポロ競技場は、入場料も飲食も無料だったこともあり、約2万人のヒッピーたちで埋め尽くされた。
グレイトフル・デッドやジェファソン・エアプレイン、ジャニス・ジョプリンが在籍するビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーのライブのほか、知識人による演説も行われた。
元ハーバード大学教授でLSDの研究者でもあるティモシー・リアリーは、集まったヒッピーたちにこう呼びかけた。
「このシーンに傾倒し、起こっていることに同調せよ。高校、大学、大学院をドロップアウトせよ。会社のつまらぬ役職からドロップアウトせよ。我に従って、けわしい道をともに進もう」
これをきっかけに運動は拡散していき、ロサンゼルスやシアトル、ニューヨークなどさまざまな場所で、ヒッピーによる集会やイベントが催されるようになる。
1967年6月には、「音楽と愛と平和」を掲げたモンタレー・ポップ・フェスティバルが開催。ヒッピーを中心に約20万人が参加した。この年の夏は「サマー・オブ・ラヴ」と呼ばれた。
そして、1967 年10月21日。
デモの発起人だったアビー・ホフマンは、2000人で手を繋いでペンタゴンを取り囲むことによって、ペンタゴンを浮上させて悪の魂を振り払うという常識外れな計画を立てた。
結果は言うまでもなく、失敗に終わる。
しかし、ペンタゴン前に集まった人々のデモは続き、夜になっても大勢が座り続け、徴兵カードを燃やすといった行為で反戦を主張した。
現場に配置された大勢の州兵による警備隊とデモ参加者の衝突もあちこちで発生し、逮捕される者も現れた。
それでもデモの勢いは衰えることはなく、いつ警備隊が発砲しても不思議ではない一触即発の状態が続いていた。
そんな中、1人の若者が銃を構える警備隊に近づき、州兵が突きつけたM14ライフルの銃口に、1本ずつカーネーションの花を差していった。
自分に向けられた銃口に花を挿す、という勇気ある行動によって、張り詰めていた緊張の糸は切れ、他のヒッピーたちも次々と目の前の銃口に花を挿していく。
この時撮られた歴史的な瞬間の写真は、「フラワー・パワー」と名付けられ、その年のピューリッツァー賞にノミネートされる。この出来事によって、ヒッピーたちは「フラワー・チルドレン」と呼ばれるようになったとも言われている。
ヒッピーを中心とした若者たち10万人による大規模なデモは、ニュースで大きく取り上げられ、アメリカ国内の世論に少なからず影響をもたらした。
世論の支持を失ったジョンソン大統領はその後、北爆を中止して次期大統領選への出馬も断念、政界を引退することになった。
ヒッピーたちのデモは国内にとどまらず、世界中の若者たちにも影響を与えた。
南ベトナムを支援していた日本でも翌年、10月21日を国際反戦デーとして、ベトナムへ燃料が運ばれるのを阻止しようと、新宿を中心に大規模なデモが実施された。
文/TAP the POP
参考文献:「ザ・ヒッピー フラワー・チルドレンの反抗と挫折」バートン・H・ウルフ著 飯田隆昭訳(国書刊行会)