小説は“言葉のアート”
奥泉 自分でいうのもなんですが、あの強烈なdadadaが入り込んでいくには、テキストが相当強力じゃないといけないんですね。極端なことをいえば、どこを読んでも面白くなければ駄目なんです。果たしてそうなっているかどうか不安ではありますが、それが理想なんです。
川名 でも、「何だこれは?」と興味を惹かれるまでがすごく早いですよね。読み始めて割とすぐに、なんだか様子がおかしいのが分かってくる。それはやはりテキストの力だと思います。
奥泉 きっと、視点が入れ替わっていることがそういう感じをもたせるのでしょうね。デビューした頃はもっぱら単視点で書いていたのですが、今度の小説は、最初は一人称で、途中から三人称になり、さらにまた一人称に戻ったりしている。あえて三人称と一人称の境目をなくしているんです。
川名 マジック的にすり替わっている。
奥泉 前に書いた『雪の階』という長編では、〝三人称多元〟の手法を用いていて、ワンセンテンスの中で視点が入れ替わる技法を使いました。結構細かくやっているのだけれど、それを読者には気がつかせないようにするのが肝心です。そうした手つきが目に付くと興醒めですから、分からないように視点を変えていく。一定の達成があったと自分では思っていたんですが、今回はそれとは違う形で、さらに自由にやっています。
川名 そうやって細かく計算、計画されているので、奇書ではあるけれど、とても綿密に計画された奇書なので、本音をいえば、装丁という仕事ではなくて、初めて読む読者として新鮮な目でこの本に出合いたかったという気持ちもあります。
奥泉 さっきもいいましたが、チャンスがあればこういう本をつくりたかった。むしろ、さまざまに遊びがあるのが小説だぐらいの気持ちですね。
伝統的な文芸の流れでいうと、ぼくはリアリズムの作家ではなく、一応、モダニズムの作家だと思っています。モダニズムの作家というのは、訳の分からないことやりたいんですね、本当は。
小説とは散文による言葉のアートである、というふうに捉えることができる。さきほどの『草枕』のような小説はアートとしての小説を強く意識した作品で、その流れはヨーロッパでも日本でもずうっとある。ぼくはどちらかというとその流れの作家だと自分を位置づけています。
そういう意味でいうと、小説にいろいろな遊びがあること自体何の違和感もないし、むしろそういうことをやりたかったんですけど、なかなかやる機会がなかった。
川名 それをやる必要がある作品でないとできないですよね。
今度の作品は、奥泉さんのこれまでの作品の人物がスターシステム的に登場してきて、「あっ、これ、あの人だったのか」みたいな感じで面白がれるし、読んでいて「奥泉祭り」を楽しんだという感じですね。
奥泉 そういっていただけるとありがたいです。
――最後にカバーについて、お話しいただけますか。
川名 カバーは最後までなかなか決まらなかったんですね。本屋さんでこの重い本を手に取って、パラパラッて開いたら、dadadaという文字が並んでいるわけじゃないですか。だったら外側でも遠慮することはない、外側からずっとdadadaっていってるほうがいいかなと思ったんですね。
だから、カバーには本文と同じ書体でdadadaを前面に出したのですが、帯のコピーが送られてきたのを見ると、「響き続けてきた」のところに傍点がついている。そのとき、なんとなくまだdadadaが足りない気がしていたので、ここにdadadaを入れられると思って、傍点の代わりにdadadadadadadaを入れました。
何日かかけて装丁を考えていたんですけど、バイオリズムがあって、今日はすごく入れたいと思う日と、ちょっとびびっているみたいな日があったりした。で、最終的には整合性を取ろうとして、あまり入れすぎずに隙間を増やしていくという感じになっていたんです。きっとそのことがどこかで頭に引っかかっていて、足りないというのがあったんでしょうね。
奥泉 帯のdadadaのルビもとても効いているし、分厚い背にはタイトルが大きく置いてあって、重量感がとてもいい感じで出ています。
川名 本屋さんの棚に差してあっても充分に存在感が出る厚さなので、タイトルが大きく入る形にしました。
奥泉 長年の思いが叶った、とてもいい本ができて、大変嬉しいです。