「働いていても本が読める」社会
しかしこの社会の働き方を、全身ではなく、「半身」に変えることができたら、どうだろうか。
半身で「仕事の文脈」を持ち、もう半身は、「別の文脈」を取り入れる余裕ができるはずだ。
そう、私が提案している「半身で働く社会」とは、働いていても本が読める社会なのである。
仕事だけではないかもしれない。育児や介護、勉強、プライベートの関係。そういったもので忙しくなるとき、私たちは新しい文脈を知ろうとする余裕がなくなる。
新しい文脈を知ろうとする余裕がないとき、私たちは知りたい情報だけを知りたくなる。読みたいものだけ、読みたくなる。未知というノイズを受け入れる余裕がなくなる。長時間労働に疲れているとき、あるいは家庭にどっぷり身体が浸かりきっているとき、新しい「文脈という名のノイズ」を私たちは身体に受け入れられない。
それはまるで、新しい交友関係を広げるのに疲れたときに似ている。未知の他者と会って仲良くなるには、自分に余裕がないといけない。それは仕事の文脈しか頭に入ってこないときに、新しい分野の本への感受性を失っている体験にとてもよく似ている。
だが新しい文脈という名のノイズを受け入れられないとき。
そういうときは、休もう。
と、私は心底思う。
疲れたときは、休もう。そして体と心がしっくりくるまで、回復させよう。本なんか読まなくてもいい。趣味なんか離れていいのだ。しんどいときに無理に交友関係を広げなくていい、疲れているときに無理に新しいものを食べなくていいのと同じだ。
そして─回復して、新しい文脈を身体に取り入れたくなったとき、また、本を読めばいいのだ。
そんな余裕を持てるような、「半身で働く」ことが当たり前の社会に、なってほしい。
それこそが「働いていても本が読める」社会だからだ。
本を読むことは、自分から遠く離れた他者の文脈を知ることである。しかしそれは遠く離れているとはいえ、自分と完全に切り離されているわけではない。いつか自分につながってくる文脈なのかもしれない。
たまに「本が役に立つかどうかなんて関係ない」と言う人がいるが、あれはつまり、あなたの今の文脈にすぐつながるかどうかは分からないくらい遠いかもしれない、と述べているにすぎない。だが私は、この世の知識はいつかどこかで自分につながってくると思っている。
他者は自分と違う人間だが、それでも自分に影響を与えたり、あるいは自分が影響を与えたりするのと同じだ。
遠く離れた他者もまた、いつかのあなたとつながる文脈にいるのかもしれない。
だとすればやはり、本を読むことは、どこかであなたにつながるかもしれない文脈を知ることだ。今は、働くことにつながらないように見えても。
働きながら、働くこと以外の文脈を取り入れる余裕がある。それこそが健全な社会だと私は思う。
働いていても、働く以外の文脈というノイズが、聴こえる社会。
それこそが、「働いていても本が読める」社会なのである。
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