死体、遺体とどう向き合うか
このような隙間を埋めるために、本書は死体、そして遺体との向き合い方に関し有益な示唆を与えてくれる論考が何本か掲載されている。
まず冒頭の養老孟司「ヨーロッパの墓を巡って思うこと」では、西洋における死の概念と日本におけるそれが、根本的に異なるという点を、墓への紀行という形で掘り下げている。特に心が惹かれたのは、死体と遺体の概念の差異である。
客観的、生物学的には死んだ肉体である「死体」であっても、死者と残された者との関係性のために、捉え方が「遺体」に置き換わっていくプロセスの解説は、「死とは何か?」を深く読者に考えさせてくれる。
この観点からは、山本聡美「九相図を見る」も興味深い。「九相図」は死体が腐敗し、白骨化していくまでの様子を9段階で表した絵画で、中世の仏教において、死をどのように認識していたのかという点が象徴的に表現されている。
現代に生きる我々は、火葬を当然の前提としてしまっているが、大量の燃料を必要とする火葬が日本で一般化してくるのは近代以降であり、日本人の中で死の概念が元々どのように形作られていったのかを考えるうえで、大変参考になった。
同時に本書では、安村敏信「幽霊画を見る」において、いわゆる“足のない幽霊”の概念が、江戸中期に活躍した円山応挙以降の所産であり、日本人の幽霊兵の感覚や思いも時代とともにかなり変化しているという点への言及もある。
さて、本節の冒頭では何気に「病院で死亡」を前提として書いているが、あえて自宅での死を選ぶ方も増えてきているというエピソードも本書に収録されている。
確かに、昭和の頃は、元気だった祖父母が徐々に弱り、家で亡くなるという一連の死への経過を家族が見るというのは普通だった。
ただ思い起こしてみると、同居の親族にはかなりの負担があったことも確かで、看取りの場が病院に移っていったのも理解はできる。
小笠原文雄「在宅看取りの実際」では、令和のこの時代において、お年寄りが徐々に弱り、自宅から安らかに旅立つために、医療が具体的にどのように貢献できるのかという観点から終末ケアが描かれており、自分と家族の間で不可避的に発生してくる別れの形態として、これもまたありうるかもしれないと実感を持ちながら読むことが出来た。