すべてはA4一枚の企画素案から始まった

マイケルとセガの交流が続く中、セガ上層部から、「マイケルでアーケード(業務)用ビデオゲーム企画はどうだ?」という打診が現場にあった。

その打診を受けたのが、今回取材を行った鶴見六百氏である。鶴見氏によれば、上長からの打診は極めてラフなものだったそうだ。それを聞いた鶴見氏は「マイケルの楽曲は『スリラー』やそのミュージックビデオを観たくらいで、あまり興味がなく、あいまいな対応をした」という。

しかし、A4ペラ紙1枚の素案をもとに立ち上がったマイケル・ジャクソン・ゲーム・プロジェクトに、鶴見氏は正式にアサインされた。

鶴見氏は早稲田大学理工学部を卒業後、1989年にセガに入社。『マイケル・ジャクソンズ ムーンウォーカー』の導入が1990年であり、その間はわずか1年。新人ながら、世界的なアーティストをフィーチャーしたゲーム開発にアサインされたことに驚いたという。

『マイケル・ジャクソンズ ムーンウォーカー』のゲーム開発を行った鶴見六百氏
『マイケル・ジャクソンズ ムーンウォーカー』のゲーム開発を行った鶴見六百氏

A4ペラ1枚の企画書は、鶴見氏の先輩で、1987年に大ヒットを記録したアーケードゲーム『忍-SHINOBI-』を開発した菅野豊氏が作成したもの。それまでに例のない、ダンスをフィーチャーしたアクションゲーム企画だった。

開発チームは鶴見氏をはじめ、ほぼ全員が新人。当時のセガはゲーム研究開発には惜しみなく予算と人材を投入した。新人を起用した実験的な作品も多く、優秀なプランナー、プロデューサー、プログラマー、デザイナーを数多く輩出した。

新人チームの悪戦苦闘と“Mr. Jackson says……”

鶴見氏によれば、マイケルを起用したゲームは、ピンとこなかったようで、「マイケルでゲームを作るならば、最新のテクノロジーを使ったセガお得意の新発明に近い体感ゲームがいいのではないか」と思ったそうだ。

しかし、渡されたA4ペラ1枚の企画書は、プレイヤーは斜め上からの視点で、画面上のマイケルをトラックボールで操作して、敵を倒していくものだった。

鶴見氏は「企画書に『忍─SHINOBI─』の要素を取り入れて開発していきました。ただ、みんな新人なので、本当にこれでいいのか……という疑問だらけでした。開発中盤をすぎたころにはベテラン開発者も参加し、徐々にゲームとして出来上がっていきました」と当時の状況を振り返る。

マイケルと交流があった元セガ常務取締役の鈴木久司氏(左)。常にマイケルとともに行動したガードマンのビル・ブレイ氏(右)
マイケルと交流があった元セガ常務取締役の鈴木久司氏(左)。常にマイケルとともに行動したガードマンのビル・ブレイ氏(右)

また、マイケルへのゲーム開発進捗レポートも鶴見氏に任された仕事で、辞書を片手にイメージ画像やビデオを添えて作成していった。それらはセガ・オブ・アメリカ(セガのアメリカ本社)を経由してやり取りされ、鶴見氏がレポートを送るとマイケルから必ずレスポンスがあった。

「そのレターの書き出しは『Mr. Jackson says……』となっていました。『とってもいいけど、こうしたらどうだろうか?』や、『自分だったらこう思うが、開発メンバーはどうか? 開発メンバーの意向を尊重したい』という表現で、常に私たち開発者に配慮したレスポンスだったことに驚きました。

なぜなら、マイケルくらいのスーパースターであれば、自身の感性を貫いても不思議ではないですから。あとマイケルに言われて記憶に残っているのは、『敵は殺さない、浄化するんだ』という表現です。愛にあふれた人でした」