「ナムアミダブツ」
空也さんが30代で京都に戻る頃、京都を中心にひどい疫病が流行します。地震もあって、天候も悪かった。すると平安京を取り巻く京都では、庶民が一気に貧しくなり、飢えや病気になって、道々で亡くなっていくのが当たり前のような町になってしまいました。みんなが明日も生きていられるか、不安に苛まれた恐ろしい時代だったのです。
そこで空也さんは立ち上がります。まず、社会的な事業を実践しました。井戸を掘り、新鮮で清潔な水を供給し、汚染された井戸は閉じました。続いて遺体を火葬。
それまで道端で腐敗していた亡骸を生活圏から除のけることで、病原菌による伝染を防ぎました。全国を歩いた修行の賜物か、当時すでに「清潔」「病原菌」「感染」みたいな衛生観念をお持ちだったみたいですごいです。
続いて体と心に栄養を与えました。体への栄養として梅昆布茶を煎じて与えました。飲み水もままならない人にとって清潔で、ミネラルの含まれるお茶はどれほどの恵みだったでしょう。托鉢をして少しでも食べ物が手に入ったら病人に分け与えました。
心への栄養として、自ら観音像を彫って手押し車に乗せ、お念仏を唱えて町中を歩きました。そう、お念仏です。「ナムアミダブツ」と念仏を唱えることで救われる、という非常にシンプルな教えを実践しながら広めたのです。
当時はまだ仏教は貴族のもので、庶民にとっては馴染みのない難しい教え。「死んだらどうなるの」という恐怖と日々戦う人のために、空也上人自らが彫った十一面観音を車に乗せて歩いたので、誰でもお像に手を合わせられました。しかも、カンカンカン、と胸につけた鉦を鳴らし、とても簡単なフレーズで極楽浄土の救済を教えてくれる!人々は絶望せずにぐっすり眠れる日が増えたんじゃないでしょうか。
自らを「空也」と名乗って、自分を捨て切って献身的に町を歩いている姿が、六波羅蜜寺の空也上人像なのです!私は、この文章を書いている今、もう泣きそうです。なんて尊いお坊さんなんですか!
そして、康勝作の空也上人像は、リアリティと細部のこだわり、全体のすごみによって、そんな空也の生き様を全てで伝えてくれるようなのです。