商業映画デビューが決定した24歳

――奥田監督は24歳で商業映画デビューが決まったんですよね。

奥田 『東京プレイボーイクラブ』という映画でデビューしています。当時、「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」のグランプリ作品を最年少の23歳で受賞していたんです。それで、スカラシップ【2】で映画を撮ることになったんですが、いろいろあってスカラシップがなしになって。そんな時に、ゆうばりでグランプリになった自主映画を観た某制作会社の社長さんが「じゃあうちでやってみるか!」ってことで、商業一発目が決まったんです。それが24歳。 

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――映画監督としては相当若いですよね

奥田
 そうですね。若かったですけど、例えばオーソン・ウェルズみたいに25歳であんな傑作(『市民ケーン』)を撮ったり、ポール・トーマス・アンダーソンみたいに26歳で『ハードエイト』を撮ったり、結果が伴っていればいいんですけど。その作品を観た人がどう思うかは別として、自分としてはやっぱり「監督」といえる仕事はできなかったなってずっと後悔しています。

映画『クズとブスとゲス』 ©2015映画蛮族
映画『クズとブスとゲス』 ©2015映画蛮族

――デビューしてから『クズとブスとゲス』を撮るまで何年くらいありましたか?

奥田
 それからは3、4年ありました。その間にケータイ小説が原作の恋愛映画のオファーをいただいたりしたんですが、とにかく生意気だったんで、その場で断ったりしていました。「いやムリ! オレ、硬派だから」みたいな、今思うとすごい感じ悪いヤツでした。そんなだから、仕事が全然来なくなっちゃったんですよ。

それで自暴自棄になって「人生の早送りダー」って言って睡眠薬を飲むようになったんです。睡眠薬を飲むと時間が経つのが早くて1週間が1日ぐらいの感じになって。ずっと微睡(まどろ)んでる状態なんです。「オレはもうこのままダメなんじゃないかな」って思ってたけど、どうせ人間としてダメになっちゃうんだったら、映画でおかしくなりたいなと思って、『クズとブスとゲス』を撮りました。

呂布 そうだったんですね。奥田監督は俳優としても映画に出られていて、僕は役者としての奥田監督も好きなんですよね。『クズとブスとゲス』でも、本当に破滅的な主人公で。その破滅具合がどんどん加速していって、最後の方なんか燃え尽きる直前の話みたいな感じがいっぱいあって、見事な破滅映画でしたね。