日本国の始まりはヤマト時代

“古墳の大家”が語る、「邪馬台国」最新学説。「吉野ヶ里遺跡の石棺墓は卑弥呼のものではない」「漢委奴国王の金印は何十個もあったんじゃないか」_2

――自分は軍事関連の仕事をしていますが、その視点で見ると、日本史上初の大規模な戦争とされる倭国大乱を終結させて日本を統一した邪馬台国が、吉野ヶ里遺跡のある有明湾北岸に近い位置にあったとは考えにくいのです。そもそも、日本という国はどのように成り立っていったのでしょうか?

倭国大乱はまだ解明されていないので答えられることがあまりないのですが、日本の国の形、空間的なフォーメーションの変化には3段階あると私は考えています。

第1段階は、弥生時代に九州を統一していた倭国王の時代。これを私は「筑紫(つくし)時代」と呼んでいます。

第2段階が、古墳時代に大和が中心になり、その後は奈良や京都など細かい移動がちょこちょこありますが、見ようによっては幕末まで1000年以上続きました。これを私は広い意味で、カタカナで「ヤマト時代」と呼んでいます。

第3段階は、鎌倉幕府や江戸幕府など実質的に関東や江戸が中心になった時代。これを私は「東(あずま)時代」と呼んでいます。

――日本国の始まりは、第1段階の筑紫時代なのでしょうか?

僕のなかでは第2段階のヤマト時代が日本国の始まりだと思っています。筑紫時代はあくまでも局地政権。倭の王というけど、中国からもらった金印には「漢委奴国王」(漢の支配下である倭の奴の国王)と書いてあるわけです。

考古学的な情報を集めても、倭の王の覇権は九州以外に及んでいない。あくまでも九州の局地政権であり、さらに東のほうにバーバリアン(未開人)がわーっといる感じです。

古墳時代になると、前方後円墳が九州から東北まで広がり、初めて大和に中央政権ができました。律令国家になる奈良時代以前を、私の大学時代の師匠である都出比呂志先生は「初期国家」と呼び、「これがホンマの日本の出発点や」と言っていました。

前方後円墳はひとつのお墓の形であり、ひとつの宗教体系。それが、九州から東北まで広がった。日本人、当時は倭人ですけど、民族としてのアイデンティティが広い範囲で共有され、中央に集約された。やはり、第2段階のヤマト時代が最初の日本国と言えるのです。