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熱心に口説けば世間並みの衆道のように、
その人と男色関係になっていた

公家の姫らしき妹君が歌舞伎役者を屋敷に呼んだものの、結局、兄に取られてしまった『男色大鑑』のエピソードがありました。

いわゆる役者買いで、こうした風習がいつ始まったのかと考える時、『男色大鑑』巻五「命乞ひは三津寺の八幡」が参考になります。同話では、女太夫や女歌舞伎も絶えたあと、塩屋九郎右衛門座に岩井歌之介、平井しづまといった末代にもありそうにない美少年がいた、と記されます。そして、

「そのころまでは、歌舞伎役者が昼は舞台をして、夜は客を取るということもなく、昼でも招けば酒盛りをして日を暮らし、熱心に口説けば世間並みの衆道のように、その人と男色関係になっていたが、それを誰も咎める者はなかった」(〝その頃までは、昼の芸して夜の勤めといふ事もなく、まねけばたよりて酒事にて暮らし、執心かくれば世間むきの若道のごとく、その人に念比すれども、誰とがむる事もなし〟)

と言います。

『新編日本古典文学全集』の注には、「色茶屋で揚代を取って夜の勤めをするようになったのは、承応以後の野郎歌舞伎時代にはいってからである」と言い、昼は歌舞伎、夜は客を取るということが常態になったのは承応年間(一六五二~一六五五)以後のこととされています。 

江戸時代にも勿論あった歌舞伎界の男色習慣「早朝から夕刻までは舞台を勤め、夜は男の相手」異なる性を演じる“境のゆるい”世界_1
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役者の夜の勤めが常態化するのは
若衆歌舞伎から野郎歌舞伎に移り変わってから

ここで歌舞伎の歴史をおさらいすると、はじめに女歌舞伎が発生し、やがて風紀を乱すというので禁止され、並行して行なわれていた少年による若衆歌舞伎が盛んになり、これも風紀を乱すからと禁止され、前髪のある若衆でなく、前髪を剃った野郎頭の野郎歌舞伎という今の形になったのが承応元(一六五二)年以降です。

ちなみに女歌舞伎の禁止によって「若衆歌舞伎」が始まったと説明されることが多いのですが、実は少年による「かぶき踊り」は女歌舞伎の発生期と同時代から行なわれていたため、「この説明は正確さを欠くものとして、現在ではとられていない」(武井協三「若衆歌舞伎・野郎歌舞伎」、岩波講座『歌舞伎・文楽』第2巻所収)そうです。
 
また、女歌舞伎を始めた出雲阿国と、『常山紀談』で戦国三大美少年の一人に数えられる名越(名古屋、名護屋)山三郎は、夫婦として共に歌舞伎を始めたという伝説の持ち主です(歌舞伎学会編『歌舞伎の歴史――新しい視点と展望』)。

いずれにしても、役者の夜の勤めが常態化するのは若衆歌舞伎から野郎歌舞伎に移り変わってからで、若衆歌舞伎のころは、執心すれば世の常の男色のように欲得を離れてねんごろになっても誰にも咎められなかった、というわけです。