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「ブレない人間」なんて面倒くさいだけ。
老害になるだけ

アイデンティティという言葉がある。自分が自分であること、さらにはそうした自分が、他者や社会から認められているという感覚のことを意味し、日本語では「自我同一性」や「存在証明」と訳されている。

意識高い系の自己啓発セミナーなどで「これからのグローバル社会を生き抜くには確固たるアイデンティティを構築する必要がある」などといわれたりするが、そんなものはまったく必要ない。それどころか、確固たるアイデンティティなどむしろ害悪でしかない、と私は思う。

確固たるアイデンティティとは、いい換えれば「ブレない自分」ということにもなると思うが、何事にもブレないということは適応力がないということでもある。

大地に根を下ろした巨大な大木があったとする。文字通り何物にもブレることなく、確固としてそこに君臨している。しかし、そんな強固な大木も大きな台風などが来れば、その自分の巨大さと堅さゆえに倒れてしまう。風という環境に適応できないからだ。

一方で、なよなよとした柳の木は台風がきても激しく揺れ動くことで倒れることはない。大きさや堅さなどに勝手に固執し、風と真っ向から喧嘩して倒される大木と、弱々しく見えても風という困難をうまくいなして生き残る柳の木と、どっちが真の強者だろうか。

大体「ブレない人間」なんて面倒くさいだけだ。何を話しても聞く耳持たない頑固なじいさんがいたとしたら、多分多くは「老害」と思うだろう。それと同じで、そういう人ほど孤立する。

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自分のことを理解していると言う人ほど…

「自分らしく生きる」という言葉もある。そもそも、「自分らしさ」ってなんだ?
自分とはこういう者であると本当に理解している人なんて存在するのか?
「いや、私は自分のことを理解している」という人もいるだろう。が、そういうことをいう人間に限って、周りから自分について何かをいわれた時に「違う!お前は俺の事を何もわかっていない」と怒り出すのだ。それこそが、本人自身が自分の事を何も理解していないと表明しているようなものだ。

自分が思う自分というものは、決して自分ではない。禅問答のようでわかりにくいかもしれないが、自分で自分をこういう人間であると思っていることは、あくまで主観的なものにすぎないのであり、客観的に自分を見た姿ではない。

一方、他人がその人を見た場合には、外側に表出する表情、態度、言動、行動でしか判断ができないのだから、客観的ではあってもその人の主観までは判断できない。つまり、自分が思う自分と、他人が思う自分というものは決して同じになるはずがないのである。

俳優やモデルの人たちは、常に自分の姿をカメラがとらえた姿として認識している。同様に、歌手や声優も自分の声を客観的に収録した音声として認識している。しかし、一般人は、自分の顔の写真や録音した声を聞けば「これは自分じゃない」と思う人が多いだろう。「自分じゃない」と思うのは自分だけであって、他人から見れば「お前の顔だし、お前の声だよ」でしかないのである。