詩や短歌は、言葉という楽器を使っている音楽

永井 最果さんが詩人になるきっかけは何だったのでしょう。

最果 高校時代に詩の投稿サイトに投稿していたとき、人から「『現代詩手帖』に投稿してみるといいよ」と言われて、書店に思潮社の「現代詩文庫」シリーズを読みに行ったんです。そこで吉増剛造(よしますごうぞう)さんの「燃える」という詩に「今夜、きみ/スポーツ・カーに乗って/流星を正面から/顔に刺青できるか、きみは!」という一文があって、超かっこいい! と思ったんです。何を言っているか全然わからないけど、かっこいいことだけがわかる。現代詩ってどんなものなんだろうって知りたくて本屋に行ったのに、現代詩がなんなのかはわからないままただ痺(しび)れて帰ってきました。それから現代詩が好きになったように思いますし、私にとっての「詩」はいまだにあの時の感覚が教えてくれる気がします。詩人になったとすればこの時でしょうか。

永井 私は寺山修司(てらやましゅうじ)が好きで、以前彼が「血は立ったまま眠っている」と書いているのを、「うわー、すごい」と周りに言ったら、「え、どういう意味?」と言われて、そうだ、意味というものがあった、と思い出したことがありました。あまりのスピードで読んでしまうので、流れを確認しないままに、その言葉が頭にどかんときてしまい、それ以外の文脈を忘れていることが結構あります。言葉にやられるのが好きだからだと思いますが、その言葉の何にぐっときているんだろう。ぐっとくるというのは何なのでしょうね。

最果 たとえば、ジャズでピアノがかっこよかったときに、誰も「どういう意味?」とは聞きませんよね。私は、詩や短歌は言葉という楽器を使っている音楽だと思っています。急に転調したり違った音が鳴ったりしたときに、ものすごくかっこいいというのを言葉でやっている感覚です。この言葉はこういう文脈で書かれていてその意味がとても素敵という楽しみ方よりは、人の根深いところにある強度を信頼し切って、そこだけを目掛けて言葉を投げる、そんな表現がすごく好きです。書いた本人も、意図がわからないくらいの集中力で仕上げた文章ってこの世界にいくつもあって、それを読んだ瞬間にぐっときます。そして私はそれが「詩」だと思っています。できるだけ言葉を言葉だと思わずに書いていきたいと思っています。

永井 たった1行でもいいから、言葉が言葉ではない方法で表れているとか、詩のような言葉が1フレーズでも見られれば、すべて満足してしまうんですよね。対話の場でもそうです。哲学対話では最初に問い出しといって、参加者に普段変だと感じていることを問いの形にしてもらうのですが、ある小学生が「宇宙はどこ。」と紙に書いていました。何を言おうとしているのかわからない。でも伝わるんですよね。宇宙はどこまであるのかという問いなのか、宇宙はどこにあるのかという叫びなのか、彼の混乱が問いに表れている。

哲学対話の場では、こういうわけのわからないものこそが醍醐味(だいごみ)。私はその1フレーズを聞けただけでぐっときて数週間はやっていける、そのくらいの愛着があるんです。それがなぜぐっとくるのかはわからないのですが、言葉はしぶとくて、すぐに理解させない。そのしぶとさみたいなものに世界の奥行きが見える。自分が10代の頃は「こんなもんだ」って思ってしまうとか、行き止まりだと感じられることがとても苦しかった。でも、ふと出てしまう詩的な言葉に相対したとき、まだ世界には厚みがあって、逆説的に希望になる感覚がありました。

詩も哲学も対話も、いつまでも終わらせられない

永井 私が先ほどから話している、偶然生まれてしまうような詩の言葉、言った本人が意図していないような仕方で出てくる奇妙な言葉があります。一方で、寺山修司や宮沢賢治(みやざわけんじ)が探求した先にある練り上げた詩の言葉が存在する。これらは違うものなのでしょうか。

最果さんは、詩を作るときに出てくる言葉と、偶発的に出てきてしまう詩のような言葉は、どう違うと思われますか?

最果 寺山修司も宮沢賢治も探究はしているけれど、書く1秒前に今から傑作を書くぞとは考えていないでしょうね。練り上げていてもそこには偶発的な何かが必ずあると思う。本人の計画から外れた何かが。

私の場合は、詩を作ると決めて書き始めると、本当に退屈な文章が始まってしまいます。だから別のことを考えながら、たとえば行列に並んでいるときとかに作り始めると、意外と集中して、いいものができた気がするときがあります。言葉を書いている人たちは、書き終わると作品の良し悪しを自分で判断して編集者に渡さなくてはなりません。

練り上げられた言葉と偶発的な言葉に違いがあるとしたら、その良し悪しを見極める目が育っているかが大きい気がします。それと、偶然言葉がやってくる時を、どれだけ前のめりに待っているか、も違うのかも。ペンを持ちながら、自分の中に閉じこもらず、自分の外からくるものをずっと待つのは視界を360度に開いて集中するようなことで、とても神経をすり減らしますから。そうやって詩の言葉が、自分の想定外のところで完成した瞬間に気づくことが、書くことと同じくらい大切な仕事なのかなと思います。

永井 哲学対話をやっていると、どう問いを出しているのですか、と聞かれることがありますが、感覚としては問いがやってくるのを待っている、というのに近い。そのときに思い出すのは友達が飼っている猫の話。すごく用心深い猫で、私は撫(な)でたいのですが、猫は関心を向けられるのが嫌いです。だから、こちらはまったく興味がないふりをして、あぐらをかいてぼーっとしている。すると時間が経つと寄って来て、あぐらの上に乗ってくれるんです。自分が問いを出したり言葉を書いたりするときは、その猫のことを思い出します。

いい問いを作ろう、いい言葉を書こうとするとすごくつまらなくなる。だからこっちに来るまでは見ないようにして、ひたすら待つ構えをする。詩人たちが不意に出てしまう言葉をちゃんとつかまえておけるのは、待つ構えが違うのかもしれませんね。書いている詩を終わらせて完成させるのはすごい決断だと思いますが、それは詩人の大切な仕事であり、経験が効く場なんだなと思いました。

最果 私もよく、その猫の例のような書き方をしますが、最初から猫が来ると思って書いていないんですよね。待つ姿勢がいい加減だったら来ないけれど、とてもいい待ち方をしたときにすとんと落ちる。だから私の中では猫が来た瞬間が完成です。

永井 私の場合は、文章を書いているときに気づいたら終わっています。自分で書いているのに、映画が急に終わるみたいに、あ、終わったって。その瞬間に書いたものが圧倒的に他者になる。哲学対話もいつ終わるのかは大きな問いで、本当には終われない。だから時間で区切っていて、どんなに盛り上がっていても時間が来たら終わります。でもそれぞれの人の内側では哲学も対話も続いていきます。数年後に、あのとき言っていたのはこういうことだったんだ、と不意に思い出すこともある。終われない宿命を引き受けるために、その場では徹底してパツンと終わることをやっている気がしています。だから対話はある意味、詩とは違って完成しません。その違いも面白いです。

最果 本当は詩も終わらせられないんだと思います。それを無理やり終わらせるのが、さっきの寺山修司のように強度の高い言葉。そういう、人が書くものを超えてしまった言葉みたいなものが出ると、終わるしかなくなって終われるのかなぁと思います。対話が終わらせられないのは、結局みんなの話をまとめるような結論が存在し得ないからでしょうね。詩も、そこまで書いてきたものを引き受けた言葉では終わらないと私は思います。全てを解決する言葉では終わらないです。ただ、それでも自分のそうしたぐるぐるした思考を飛び越えてしまったような錯覚を詩はくれて、それが詩の終わりなのかもって思う。終わらせられないのはきっと同じなんでしょうね。哲学対話が時間の区切りの代わりに、「それではお時間なので」と終わるのがいいですよね。詩には、そうした言葉がないからこそ、そのたびに別の「終わりではない終わりの言葉」を探しているのかもしれません。

永井 「それでは、お時間ですので終わります」で終わる詩も、いつか読んでみたいですね。

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