6年前の6月、ポルトガル南端のリゾートにある海岸でビーチチェアに寝転がっていた私の携帯に、ベルリンに住む義弟からのメッセージが入った。明日はポルトガルの奥地にある我が家、C荘に戻るという日だった。

「火事みたいだけど、無事でいる?」

 立て続けに同じようなメッセージがいくつかドイツから届いた。なんのことかわからず検索してみると、C荘から20キロほど離れた地域で山火事が起きていた。ドイツでさえニュースになるほどの大規模なものが。

「やばいな。うちも燃えるぞ、これ」まったく現実感がわかない私とは逆に、夫は顔面蒼白になっていた。

 夫の悪い予測は話半分以下に聞く癖がついているものの、それでも翌日の帰路は不安だった。半日のドライブを経てC荘まであと3キロというところで、尾根を走る広めの道路から、はるかに連なる山並みの向こうに何本もの太い煙が立ち上っているのが見えた。うちではなく、川の向こうの地域のようだったが、窓を開けると煙のにおいがして、ぞっとした。生ぬるい風が吹いているのも不気味だった。

 大きな道路からくねくねした山道に曲がり、下っていくと、道端に軽トラが停まっていた。谷のこちら側、川からすぐのO村にあるカフェのご主人マヌエルが運転席に座って、煙の柱に目を凝らしていた。

 状況を尋ねる私たちに、マヌエルは煙から目をそらさないまま、

「火はいったん川を渡ってきたが、谷で消し止めた」と言った。

 町の消防隊は出払っていて、こちらにまで手が回らない。火を消し止めたのはマヌエルを含む村の男たちだった。

「また火が川を渡ってきても、すぐに消し止めるから心配するな」

 歳を取っても逞しいマヌエルが、ますます頼もしく見えた。

 C荘に戻るとすぐに、当時はまだ夫婦だったアントニオとグラシンダのS村の家を訪ねた。日曜日だったのでふたりとも家にいた。

「怖い」と言う私に、ふたりは口をそろえて「大丈夫、火はこちらまでは来ない」と言った。

「でも川を渡ってきたって、さっきマヌエルが」「ここまで煙のにおいがするくらいなのに」「今日は風が強いから」――不安の種はいくつもあった。

 けれどアントニオは「ここまでは上がってこないから大丈夫」とどっしり構えている。横でグラシンダも頷いている。

 火事は何度も体験してきたからわかる、今回は大丈夫だ、と。

「それでも、もし火が来たらどうすればいいの」としつこく食い下がる私に、グラシンダは「来ないけどね」と苦笑しながら、

「火が来るとわかって、時間があれば避難する。避難する時間がなければ、鎧戸を閉め切って、家のなかにいなさい」と言った。

 敷地のなかには燃えやすいユーカリも松もないからC荘はたいした火事にはならない。家は石造りだから燃えない。火が通り過ぎるのは一瞬なので、家のなかで待つのが一番安全なのだと。

「でも、うちの屋根の骨組みは木だ」夫が言った。「屋根瓦の隙間から火の粉が入って火がついたら燃える」

 確かにそうだ。当時はまだ屋根裏は居住スペースではなく、上る機会もなかったので、骨組みが何材かなど、私は考えたこともなかったが、夫は材料工学の研究者だからか、そのあたりは抜かりない。

 夫の言葉にアントニオとグラシンダは、「わかった、じゃあ万一避難する必要が出てきたら必ず間に合うように連絡する、迎えにいくから」と請け合ってくれた。自分たちには地元のネットワークがあるから、危険が迫れば必ず知らせがある、と。

 さらに、呑気に「夕飯食べていきなさいよ」とも勧められたが、気分的にそれどころでない私たちは断り、C荘に帰った。

 家に戻っても、そわそわと落ち着かなかった。インターネットで火事の最新情報を何度も確認するものの、わかるのは大局だけだ。だが知りたいのはここC荘に火が来るかどうかなのだ。夫は双眼鏡を持って敷地の端に陣取り、火の進み具合を知ろうとしている。ただ、我が家の敷地からはO村も下の谷も見えない。もし火が再び川を越えてこちらに上がってきても、すぐにはわからない。火が見えたときにはもう遅すぎるのでは……?

「火が見えるような気がする」と夫が言ったのは、すでにあたりが暗くなった夜の10時過ぎだった。

「確かじゃないけど、O村の方向がなんとなく明るいような」

 O村からうちまでは直線距離なら1キロだ。だがいまだにグラシンダからの連絡はない。

「逃げよう!」私はとっさに心を決めて、言った。夫が目を見開いて私を見た。言葉は交わさなかった。視線で合意した。

 ふたりで弾かれたように家に駆けこみ、貴重品と洗面用具をかき集めて、車に飛び乗った。その間、3分ほどだったろうか。

 車は、燃えるのを怖れて森に隣接するカーポートから敷地の奥へと苦労して移動させたばかりだった。そこからものすごい勢いで飛び出す際に、ドアをどこかにこすった。まだポルトガルには休暇で訪れていたころだったので、空港で借りたレンタカーだったが、そんなことは気にしていられなかった。

 曲がりくねった急坂の左右には木々が生い茂っている。山の上の広い道路まで3キロ。そこに出る前に火に追いつかれたらおしまいだ。閉め切った家のなかでうずくまっているよりはるかに危険だろう。

 夫のレーサーばりの運転で急坂を上がるあいだ、私は息を詰めていた。山の上に出たときの安堵感は忘れられない。

 ところが、最寄りの小さな町にあるホテルのロビーは閑散としていた。眠そうな顔の従業員が出てきて、「部屋はありますか」とおそるおそる訊く私たちに、「ツインにしますか、ダブルにしますか、眺めは……」といくつも選択肢を示してくれた。火事から避難してくる人で満室なのではという私たちの怖れは、まったくの見当はずれだった。確かに後から振り返ってみれば、C荘からの15分間の道のりで、避難するほかの車は一度も見かけなかった。ホテルの駐車場も空っぽだった。

 観光業振興のために公的資金を投入して建てられたホテルは四つ星で、私は以前から泊まってみたいと思っていた。けれど、部屋が広々していたこと以外はなにも憶えていない。大きなベッドで眠れないまま朝を迎えた。朝食ルームにほかに客はおらず、暇そうな従業員が「卵もっと焼いてこようか? コーヒーのおかわりは?」とつきっきりで世話を焼いてくれた。

 朝食後、おそるおそるC荘に戻ってみると、あたりはなにひとつ変わっていなかった。火が近くまで来た形跡さえなかった。

 しかし実際に火事があった20キロ先の地域では、亡くなった人も多かった。その大半は車で逃げる途中で火に巻かれたのだと、あとから知った。地域の大動脈である広い州道を通行止めにするという行政の判断が、致命的なミスとなったのだった。

 あのとき、もし本当にO村にまで火が来ていたとしたら、私たちは逃げ切れていただろうか。正解はいまだにわからない。

 後に家を改修する際、私たちが真っ先にしたのは、屋根の骨組みを鉄骨に替えることだった。

 アントニオとグラシンダには、彼らの助言を無視してホテルに逃げたことはいまだに話していない。 

 その年の10月、S村は本当に大きな火事に見舞われた。気温が下がって雨が降り始める1日前、その年最後の真夏日だった。

 ベルリンにいた私たちは、グラシンダの娘フェルナンダからの電話でそれを知った。

 11月の村の行事「マグシュト」は中止になったが、私たちは予定どおりポルトガルに飛んだ。フェルナンダが送ってくれた写真で、C荘に大きな被害がなかったことはわかっていたものの、この目で被害の全体像を確認したかったし、S村のことも気がかりだった。

 C荘は奇跡のごとく無傷だった。火はC荘の敷地を上から下まで通過したというのに、果樹が何本か燃えたほかは、なにひとつ被害はなかった。庭に置いてあった木製のベンチさえそのまま残っていた。こんな場面ではいかにも「風速は……森からの距離は……」などとなにやら計算を始めそうな夫だが、あのときばかりは神に感謝するように天を仰いでいた。

 けれど、向こう山のS村と周囲の山々は見るも無残なありさまだった。見知らぬ星に不時着してしまったのかと思うような灰色の景色が広がっていた。

 昨年は日本でも南欧の山火事のニュースがよく報じられたようだ。だから「最近は山火事が多い」という印象を持つ人もいるかもしれないが、火事はいまに始まったことではない。S村の人たちから何度も聞かされた話によれば、ひとつ前の大火事は2003年、その前は1990年、その前は1974年と、おおまかに言って15年に1度ほどの頻度で地域は火事に見舞われてきた。けれど燃えたのは周囲の山で、村のなかにまで火がまわることはなかった。

 ところが6年前は、火が村をも焼いた。家屋は石造りのため全焼することはないとはいえ、アントニオのアデガ(ワイン蔵)の屋根が落ちて、その年の新酒が失われた。ほかにも多くの家が、窓が割れたり、屋根が落ちたりと大きなダメージを受けた。なによりの損失は、一部とはいえブドウやオリーブなどの果樹が燃えたこと、村人たちが飼っていた羊や山羊や鶏の多くが死んだことだった。

 ただ不幸中の幸いと言うべきか、死者はもちろん怪我人もひとりも出なかった。向かいの山から火が下りてくるのを見て、猶予はあと2時間と見積もった村の男たちが、高齢者と女たちと車を町へ避難させ、その後自分たちは戻って、火と闘ったのだった。

焼けた村と潤う人々【ポルトガル限界集落日記】第6回_1
C荘の周りの山は無残に焼けた
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 その年の火事が特にひどかったのは、昔とは山の植生が変わっていたせいだ。かつてはコルク樫をはじめさまざまな原生の植物が火を食い止め、村を守っていた。しかし時代の変遷とともに地域の貴重な現金収入源だった樹脂産業が衰え、山にはユーカリの木々が植えられた。燃料用の薪や木質ペレット、パルプや製紙の原料として売るためだ。育つのが早いユーカリは、手っ取り早い収入につながる。だが一方で非常に燃えやすいうえに、地下の水を吸い上げ、土壌を乾燥させるのだという。

 ユーカリを制限するべきだという声はしょっちゅう上がるが、世界中のどの国とも同じで、各業界と政治が深く結びつき、利権が絡まり合っているため、場当たりの対策が取られるばかりで、根本的な改革にはいたらない。

 そしてもうひとつ、直視するのは辛いことながら、火事で得をする人間が多いのも厳然たる事実だ。燃えた森の木は大企業が安値で買い叩く。焼けた家の修復や再建築で建築会社は大忙し、建築資材も売れる。町には国からの支援金。とある町では全国から集まった支援物資や寄付金を町長が横領していたという、なんともしみったれた話もある。

「皆が得をする、焼けた土地の持ち主以外はね。火事はいいビジネスなのよ」と、冷めた口調でグラシンダは言う。

 火事の原因は人だ――こちらではそれは、太陽が東から昇るのと同じくらい、当たり前の共通認識だ。ドイツでは山火事は南国の災害として気候変動に絡めて報道されるばかりなので、最初に聞いたときはにわかには信じられなかったが、統計によれば、実際に山火事を含めた農村火災の約80パーセントは人災だ。

 ポルトガルの夏は乾燥していて、煙草の吸殻などを山に放置するだけで火は簡単につき、風の強い日にはあっという間に燃え広がる。農地の焚火が強風などで意図せず山火事になることも多い。

 さらに、そういった過失ばかりでなく、意図的な放火も多い。自分の土地の木を高く売るために隣人の山を焼いてやれ、といった個人的な悪意や欲からのものもあれば、もっと深い闇を感じさせるものもある。6年前、私たちが存在しない火を見て逃げたときに20キロ先の地域を焼いた火事は、地元のエンジニアの放火が原因だった。職業上の特技を生かし、自作の時限発火装置を使ってアリバイを確保しつつ、毎年のように地域一帯のあちこちの森に火をつけていたその男は、一昨年ついに逮捕された。動機を訊かれて「不安、焦燥感、煙が見たかった」などと答えたという。

 別の地方では、消防士が放火をして、自分で消火にあたっていた。文字通りのマッチポンプである。こちらの犯人は「消火活動をするのが好き」と語ったとか。

 少なくとも私たちの暮らす地域では、こんな動機は誰も信じていない。