「大学は贅沢品」という世間の風潮に思うこと
虐待を受けていた過去を知る人から、「自分と同じ境遇の人を助けたいんだよね」と言われることがあるという。そんなとき、「すぐには言葉にできないけれど、モヤモヤしました」という。
「私は、精神医学や心理学を学ぶことにやりがいを感じています。確かに興味を持ったきっかけは自分の背景かもしれません。ですが少なくとも現在の私は、自分の境遇抜きにして、純粋にこの分野を学ぶことを楽しんでいます。
それに、自分と同じ境遇の人を救いたいという動機では、相手にも良い影響を与えないと思っています。周囲の決めつけがあると、“被害者”という立ち位置から抜け出せなくなるんですよね。私も一生『施設出身の人』として生きていく必要はない。
一見、手を差し伸べようとしたりしている人たちも、『可哀そうだね』と言いながらも、“被害者”としてしか接しないことで、サバイバーがそれ以外のアイデンティティを確立する機会や幸せになる道を阻害していると感じることもあります」
2年ぶりに会ったリナさんからは、学問に打ち込み、探求できる充足感と、将来の明確な目標や理想への熱がひしひしと伝わってきた。
「親に頼れない中、医学部に現役で合格するのは、やっぱりすごいと思いますよ」と伝えると「でも自分が特殊なケースにはなってほしくないですよね」という答えがすかさず返ってきた。生い立ちゆえに進学を諦める子どもたちがいることへの危機感は、2年前から変わらず抱き続けている。
最後に「大学は贅沢品」という世間の風潮に対して、率直に思うところを話してくれた。
「本来大学というのは、学問が好きな人たちが、学問を深めるために集う場だと思います。ただそんな中で、学問が好きで、勉強することを望んでいて、そして学んだことを社会に還元したいと思いつつ、さまざまな事情で大学に進学できないという人たちもいます。
その人たちに対して『大学は贅沢品、貧しいなら進学は諦めるべき』と一蹴してしまうのは、大きな社会損失だと思います。その人たちが学ぶことで、よりよい社会になるかもしれませんし、その人たちの存在に誰かが救われるかもしれません。お金がないなら大学は諦めろ、という言葉は、貴重な人材をドブに捨てているようなものかもしれません。
論点はずれてしまうかもしれませんが、社会は学びを求める人たちに対してもっとやさしくあるべきだし、学生は学生で、社会から“お金を投資する価値がある、この人には学んでもらいたい”と思わせるような、学問に対する誠実さが必要なのかもしれませんね」
取材・文/ヒオカ