11・20 オシムさん追悼試合

11・20追悼試合にオシムが遺してくれたもの【木村元彦 惜別手記】_1
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蘇我駅を降りて小雨のパラつく歩道を歩いていると、ふいに後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、ジェフのレプリカユニに身を包んだ見覚えのあるカップルが手を振っていた。

「ああっ」思い出した。会うのは十何年振りだろう。旧知のジェフサポーター夫妻との久しぶりの再会だった。

「しばらく、スタジアムではお見かけしませんでしたね?」

「ええ、もう足が向かなくなってしまったんです」

オシムが代表監督になってから、サポーターを休止してしまったと言う。

「オシムさんが、私たちのジェフから代表に引っ張られたことが、やっぱり引っかかっていたんです」

悔しい、今日はだから、お別れを言うために16年ぶりに来たんですと、小さく笑った。雨が少し強くなった気がした。

もうほとんどの人が話題にもあげなくなってしまったオシムの日本代表監督就任の経緯だが、今も忘れられない人がいるのだ。

言い換えれば、私たちこそがオシムさんを愛していたのだと、夫妻はジェフの2006年版のユニを着てフクアリ電子アリーナにやって来たのだ。

「でも、今日はオシムさんのその命がけの仕事を悼もうよ。代表にも大きなものを残してくれたのだから。それにこの追悼試合はジェフの選手の発信だし」

「そうですね。勇人ですよね。あの勇人がね。うちらはもちろんオシムジャパンではなく、オシムジェフを応援しますよ」
 
追悼試合の発案は佐藤勇人だった。20年間のプロ生活を務め上げ、今、バンディエラ(イタリア語で騎手、クラブの象徴的選手の意)としてジェフ千葉のCUO(Club united officer)を担っている勇人は、オシム逝去の報が入ると同時に動き出した。

サラエボでもグラーツでもオシムのゆかりの土地では、それぞれに行政が動いて追悼の式が行われたが、日本のそれは、教え子の発意から始まった。

勇人はクラブに提起すると同時に、ジェフと代表でオシムの下でプレーした選手たち、50人以上に自ら電話をかけて出場を働きかけた。ほとんどの選手が、即答で賛意を示し出場を快諾してくれた。

「水本(裕貴・SC相模原)とかJ3で現役でやっている連中も試合さえ無ければ来たいと言ってくれていたし、あの(チェ)ヨンスさんも韓国(江原FC)で監督をしていなければ、行きたいと連絡をくれたんです」

「あのチェ・ヨンスさん」ならぬ「あの勇人がね」と夫妻が言ったのには、わけがある。ジェフのユース育ちの佐藤勇人はトップチームに上がる前に二度サッカーをやめていた。才能には自信があったし、周囲もそう見ていた。

しかし、自分がサッカーだけの人間と思われるのが嫌だった。10代特有の自意識から、髪を茶色に染め、ブレスレットやネックレスを身にまとうとコーチから「あいつは使えない」と言われた。

理解してくれない指導者がいる退屈な練習場よりも、町や海の方に魅力を感じていた。勇人は同世代の選手が高校選手権に向けてギアを上げる高校二年になると、練習に出なくなり、ゲームセンターとサーフィンにはまった。

脱色した長髪を無理やり黒く染められて出場した国体では、千葉県代表のキャプテンとしてチームを優勝に導く。

それでもやはり、退屈からは抜け出せず、全日本ユース代表監督の西村昭宏が代表に招聘しようと電話をかけると、日焼けサロンから「僕、もうサッカーやめたんです」と告げて、驚かせた。

才能を惜しまれてプロになり、U-21日本代表にも選ばれていたが、燃えるものが無く「サッカーはもういいか」と考えていた。21歳でスパイクを脱いでいてもおかしくなかった。そんな勇人がその後バンディエラになると、当時いったい誰が予想しただろうか。

すべては2003年に監督に着任したオシムとの出逢いからだった。