ここに、とある“イベント”がある。定員30名。2年に1回・8月の8日間、昼夜兼行で実施。参加者は高確率で「幻覚」を体験。主催者から、事前に参加者の家族にイベントの危険性について説明がなされる。その一方で、参加するには厳正なセレクションも行われる。
参加者の属性はほぼ、サラリーマン。平均年齢は40歳を越す。

走行距離415km、累積標高差27000m、悲鳴、絶望、幻覚……日本一過酷な山岳レースに憑りつかれた男たち
日本一過酷な山岳レース「トランス・ジャパン・アルプス・レース(TJAR)」。そのドキュメンタリー番組『激走!日本アルプス大縦断』(NHK BS1)が11月5日(土)「不撓不屈の男たち」/11月12日(土)「挑戦の意味」と2週にわたって放送される。特集番組として大々的に放送されるこのレースの魅力とは何なのか?
激走!日本アルプス大縦断
30名の猛者だけが出場できる
2年に1度のレース

難関の選考会を突破した30名の出場者
イベントの名は「トランス・ジャパン・アルプス・レース」(TJAR)。大会の公式ホームページの冒頭には、こう謳われる。
「烈風に晒され追いつめられる自分、悲鳴をあげる身体、絶望的な距離感、何度も折れそうになる自分の心、目指すのはあの雲の彼方。日本海/富山湾から太平洋/駿河湾までその距離およそ415Km」(一部抜粋)
聞くだに、仰天する方が、多いのではないか。「悲鳴?」「絶望?」「折れそうになる心?」
そして「415km」って何?…と。
日本一過酷な山岳レースの全容
2002年、大会の創始者である岩瀬幹生氏が、普通の勤め人でも休暇の合間に参加してクリアできる、全8日間で完走可能なコースのレースを考案した。
ただ、そのコースが凄まじい。スタートは富山県・魚津市の遊園地・ミラージュランド横の何という事もない、岸辺。

午前0時に富山湾をスタートする
そこから剱岳・立山・薬師岳・槍ヶ岳・宝剣岳・檜尾岳・空木岳・仙丈ヶ岳・塩見岳・荒川前岳・赤石岳・聖岳といった3000m級の峰峰をつなぐ稜線を駆け抜けて、最後は静岡市・畑薙ダムから大浜海岸まで85kmのロードをひた走る。累積標高差は27000mだ。

スタートからゴールまでの道のり(Googleマップより)
そう、日本アルプスの稜線を駆け抜ける“日本一過酷な”山岳レースなのだ。
コースだけでも度肝を抜くが、さらに出場選手たちには様々な制約が課せられる。まず、山小屋での宿泊や食事は禁止。キャンプ場で簡易テントを張る露営となる。
そして他のトレランレースなどでよく見られるエイドステーションは、なし。
コース途中には4か所の関門が設けられ、選手たちは時間内に通過しないと、即足切りで失格。
一方で、全長415kmのコースには通過を義務づけられる30のチェックポイントがあるが、後は何処を通るのも自由。よって、道路が遠回りなら、川の中を突っ切ったり、山ヒルによる襲撃覚悟で草藪の中をかき分けて進むのも自由だ。
数々の幻覚症状との闘い
そもそも、通常の登山者なら踏破するのにコースタイムで1か月以上を要するこのコース。選手たちはただでさえ睡眠時間を削って進むしかないのだが、予定よりペースが遅いなどの事態に陥ると、ほとんど眠れなくなる。
そうなると、冒頭で掲げた幻覚のお出ましだ。
「山中を白い軽トラックが走り回る」
「女子高生の集団が手招きをしているので寄っていくと崖」
「ないはずの山小屋が林立」
「人の顔がびっしり刻まれた石」
「見たことのない奇怪な漢字で埋め尽くされる家の壁」
「右足と左足がそれぞれ人格を持って語りかけてくる」
と枚挙に暇がない。
幻覚だけで済めばよいが、判断能力が弱まると、何度も同じルートを行き来する者や、道ばたの草を何十分と、突っつき続ける者まで現れる。
肉体的な疲労も凄まじい。日焼けや、靴擦れは当たり前、足裏全部が一つのマメになってしまう者、直径3センチの水疱が膝裏に出る者、転倒して鎖骨を骨折する者もいる。
「自己責任」の原則を重視し、選手各々に高い規律が求められるが、全選手の位置はGPSで把握されていて、何かあれば強制的にレースを中断させる仕組みも整えられている。
過去、死亡者は一人も出ていない。
かくも規格外のレースゆえ、出場するために求められる条件はシビアだ。フルマラソン3時間20分以内、もしくは100kmマラソンを10時間30分内に完走する走力、標高2000m以上の高地で10泊以上のキャンプ経験、などが定められる。
本大会前には選考会も催され、テーピングや三角巾を用いた実技、ツェルト設営や筆記試験も行われる。
試験問題の一例として仄聞(そくぶん)したところでは、「コース途上で食料が尽きた時にどうするか?」と問われるが、「道ばたの草を食べる」などと書こうものなら、「参加資格ナシ」と見なされる。
それでも人数を絞りきれなければ、抽選会でふるい落とされる者が出てくる。
鍛錬を積み上げても最後は運否天賦。それもまた、一つの人生か。
サラリーマンがめざせる究極のレース
多種の条件をクリアするため、出場準備には年単位の時間を要する。10年間を費やす者も珍しくない。トレーニングの一つである走り込みの距離も凄まじく、月間走行距離が900kmに達する者もいる。
新型コロナで遠くに行くことが出来ない今年、心肺能力を鍛えるために9kgの荷物を背負ってマンションの非常階段を週2回50往復した者もいた。絶句するしかない。
大会そのもののレベルも年々上がってきた。大会記録は4日23時間52分。その記録の持ち主は18kgの荷物を背負って東京マラソン(2015年)を3時間6分16秒でゴールしたギネス認定世界記録を樹立した猛者だった。

大会記録保持者でギネス記録も樹立した望月将悟選手(写真中央・白いゼッケン)
ところが、2022年の今大会ではその記録を破ろうという”史上最強“の挑戦者が現れ、猛者たちによる大会史上に残る壮絶なデッドヒートが待っていた。

大会記録を上回るペースで走る土井陵選手 撮影/Shimpei Koseki
こう記すと、大会出場の平均年齢でもある40代男性が少年時代に愛読した『北斗の拳』や『魁!男塾』にでも登場しそうなフィジカル・モンスターのような人物群を思い描いてしまうのではないだろうか。
視聴者からは「自分とはまるで縁のない話」との呟きが聞こえてきそうだ。だが、出場する30名の走力には、かなりのばらつきがある。
「僕みたいな普通のサラリーマンが頑張って手の届く、究極のレースです」
かつて取材にそう答えた選手がいた。
仕事は自動車メーカーの設計技師。そう、それこそがこの大会のミソなのだ。
抜きつ抜かれつの「レース」の緊張感が、番組のストーリーの主軸である一方で、実は中下位の選手たちの奮闘ぶりの「ドラマ」が、番組に彩りをそえてきた。
普段はスーツや作業着を着て、黙々と仕事をしているサラリーマンが、必死に努力して出場権を獲得して挑む、いわばサラリーマンのためのレース。賞金はなし。それが、このレースの特徴なのだ。
今年の出場選手の中にも、魅力的な言葉を発する者が多くいた。
ゴールで待っているもの
「計算尽くの生き方なんて、もうイヤだ。ここからは自分のために100パーセントやっていきたい」(銀行員)
「こういう大の大人がボロボロになって、真剣になる日、仕事なんか休んでも出るものがある。大のおじさんが、お前、こんなクシャクシャになってるよって」(石工職人)
出場した選手の言葉には、サラリーマンなら誰しも一度は思い当たる羨ましさがある。しがらみだらけの現世を離れて、たまさか見つけた“非日常“の世界へ飛び込み、思い切り暴れ回りたい。その夢をかなえてくれるのが、このレースなのだ。
「ボロボロになってでも、這いつくばってでも、どうしてもあのゴールをくぐりたい。そしたら自分がもっと変われる気がする」
ある選手は、そう言った。
どれだけ体がボロボロになろうとも、たとえゴールできなかったとしても、選手たちはレースに出たことを悔いたりはしない。何度も挑む者だって、珍しくはない。
それだけの思いが詰まった、唯一無二のレースなのである。
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取材・文/齊藤倫雄
《放送予定》
『激走!日本アルプス大縦断』
2022年11月5日(土)「不撓不屈の男たち」/11月12日(土)「挑戦の意味」両日ともに20時より BS1にて放送予定
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