リリースから40年! 愛され続けるラフィンノーズの名曲『GET THE GLORY』誕生秘話
元「smart」編集長・佐藤誠二朗によるカルチャー・ノンフィクション連載「Don't trust under 50」。ラフィンノーズのヴォーカル、チャーミーの物語も今回が最終回。自らのレーベルから1983年にリリースして、今年で実に40年目!となる代表曲『GET THE GLORY』と、自身の死生観について迫る(全4回の4回目 #1 #2 #3 #4)。
『GET THE GLORY』は、天が与えた最高の贈り物だった
「あれは、突然降ってきたんです」
1983年にラフィンノーズがインディーズでリリースした最初のシングル曲にして、現在に至るまでバンドを象徴する代表曲となっている『GET THE GLORY』が生まれた経緯を尋ねると、チャーミーはそう切り出した。
「俺とポンの2人でいたとき、どちらからともなく『♪ドッタンドドタン、ドッタンドドタン、にゃーにゃーにゃーにゃにゃー……。栄光をつかめー、栄光をつかめー♪』って。
じゃあ、“栄光をつかめ”って英語で何て言うん? “Get The Glory”じゃんか? となって『Get, Get, Get The Glory!』……あれ、これ、めっちゃええんちゃうか!? みたいな感じでね。そもそも『GET THE GLORY』ってちょっと不思議な、特殊な曲なんですよ。きっとね。ハードコアなのに『GET THE GLORY』ですから」

40年前、最初のシングル曲としてリリースした『Get The Glory』は「突然降ってきた」と語るチャーミー。(撮影/木村琢也)
1981年に大阪で活動を開始したラフィンノーズは、折からイギリスで巻き起こっていたハードコアパンクムーブメントの影響を受け、日本独自のハードコアシーンを切り開いてきた存在である。
ラフィンノーズが初めて世に出した楽曲は、1983年2月にCITY ROCKER Recordsというインディーズレーベルがリリースしたオムニバス盤「OUTSIDER」に収められた2曲(『A Bomb Will Never Die』と『No War』)だった。
そしてその年の12月には、自ら立ち上げたレーベルAA Recordsより、6曲入りファーストEP『GET THE GLORY』を発表する。
「次の日には、マンゴ(DREAMY-MANGO)っていう当時のギタリストが、また妙な感じのギターソロをつけてきて、それも『ええんちゃうんか!』って(笑)。そんな感じでポッポとできた曲なんですよ。
最初に俺とポンに音が降ってきた場所も、今やはっきりしないけど。俺の記憶では、リハの帰りに2人で歩いていたどっかの駅のホームなんです。でもポンは、『チャーミーの家やったやろ?』って(笑)。当時、俺が住んでいた阪和荘っていうアパートの部屋だったって、あいつは言うんですよ」
ハードコアパンクの土壌にはなじみにくい、ポジティブなメッセージ
パンクをエクストリーム化したハードコアパンクは、一般的にあらゆることに「アンチ」の姿勢を貫き、社会的・政治的主張を盛り込んだ過激な歌詞で、既存システムの否定や破壊を主張することが多い。
ラフィンノーズの初期楽曲も、ディストーションの効いたギターで叩きつける高速リフにシャウトボーカルを乗せる、重く荒々しいハードコアサウンドであり、歌詞やタイトルもそうしたテイストのものが多い。
だが、ファーストシングルとなった運命的な曲のメッセージは、“Get The Glory=栄光をつかめ”。ハードコアパンクとしては明らかに異色だが、バンドのその後を予見するような曲であったとも言えるだろう。
駅なのか、アパートの部屋なのかは定かではないが、普通の人びとが普通に暮らす場所にいた2人の若きパンクスの元に、天啓のように降りてきた『GET THE GLORY』は、ライブで披露すると異様なほど盛り上がる曲となった。
そしてラフィンノーズが、ポップでキャッチーなパンクロックを奏でるバンドへと路線変更してインディーズブームを牽引し、人気爆発に伴ってメジャー展開する中で、何度も再録された。
一旦の解散を経て、1995年に再びインディーズバンドとして活動を再開した後も、スタジオでの再録やライブ盤で、繰り返しファンの元に届けられている。
アレンジやテンポ、楽器の音や歌詞は、チャーミーとポンがその時々で“一番かっこいい”と思うものにアップデートされながら、いつの時代もファンの心に響く鉄板曲として存在し続けているのである。

6月17日、渋谷クラブクアトロでのライブ。アンコールのラストは『GET THE GLORY』。(撮影/編集部)
バンドにまつわるあらゆる運命を引き受けるチャーミーが、ライブに感じる「愛」
ラフィンノーズのライブではほとんどの場合、『GET THE GLORY』は最後半に演奏される。
しかし『GET THE GLORY』がついに演奏されなかったライブもあった。
1987年4月19日の日比谷野外音楽堂である。
当時のラフィンノーズは、メジャーでのセカンドアルバム「LAUGHIN’ROLL」を発表した数ヶ月後で、名実ともに人気最高潮だった。
当時、僕は高校3年生。ラフィンのコピーバンドを一緒にやっていた友達2人とともに、野音の客席エリアの最前列付近に陣取っていた。
そして、計3人の若い命が失われてしまったあの事故を、将棋倒しを起こした雑踏の中の当事者として体験した。
その日、ラフィンノーズのライブは4曲目で中断。恐らく本編後半かアンコールに予定されていたであろう『GET THE GLORY』が演奏されることはなかった。
あの日の事故のことを、チャーミーはこれまで様々なメディアで尋ねられ、いつも正面から真摯に回答している。「今もバンドを続けているのは、あの事故があったらからであるとも、そうではないとも言える」と。ただ、すべてをひっくるめてラフィンノーズの“運命”として引き受けている、というのがチャーミーの答えだ。
終わりのない旅を続けるラフィンノーズのフロントマン、チャーミーにとって、旅の道連れであるメンバーやファンと一体になれるライブとはどういうものなのかを尋ねてみた。
「陳腐な言い方をするけど、“愛”です。ハードコアでつっぱらかっていた最初の頃は、そんなこと思ったこともなかったけど、今は愛があるからこそ、ずっとライブをやっていけるんだと思う。2時間全身フル稼働で歌いっぱなしのライブって、なんやかんや言うて体はきついすけどね。それでも死ぬまでライブはやめない。
さっき話したドラマ『サンクチュアリ』じゃないけど、俺にとってライブのステージは、お相撲さんの土俵と同じようなもの。だからいくら大事な客でも、最前列のやつらがステージの端にドリンクとか置いているのを見るとカチンとくる。言ってやったこともあるんです。『おまえらな、ここは聖域だから、物とか置くなよ、ほんまに』って。『チャーミーキック入るで』みたいな(笑)」

「俺らにとってライブは愛。ライブのステージは聖域」。(撮影/木村琢也)
チャーミーの『GET THE GLORY』は、今もずっと続いている
メジャーになること、大きくなることを否定するような空気感もあるハードコアパンクシーンの中で、「栄光をつかめ」という異質のメッセージを掲げて世に出てきたラフィンノーズ。
そのフロントマンであるチャーミーは62歳になったいま、何を見つめ、何を思っているのだろうか。
「いつも何もかもひっくるめて楽しみたいし、100パーセントでいたいって気はあります。本日をもって62歳になりましたけど、今でももっともっと昇っていきたい。つまり、そういうことなんです。あのとき降りてきた『GET THE GLORYy』が、今もずっと続いてるような……」
――僕は今年54歳になります。ラフィンのライブで見かける周りの人たちも、同じぐらいの年齢が多いけど、めちゃくちゃ元気で楽しんでいます。この歳であんなふうに騒げる場ってなかなかないから、ラフィンのライブは最高のパーティなんですよね。
「今のラフィンの客は、40代や50代がほとんどですよ。でも、『俺が引っ張ってったるから、おまえらついてこいや!』と思って、こちらも全力でやってます。ライブは楽しくないと。人生は楽しむためのものと思っているし」
――チャーミーさんにとってファンはどんな存在ですか。
「来てくれるみんなが、本当にいとおしいですね。みんな『ライブでパワーもらった』と言ってくれるけど、本当にもらってるのこっちのほうです。みんなのおかげで、俺がいまだにおまんま食えてるというのもあるしね(笑)。ラフィンのライブは1回やるごとに、客も俺らもひとつ若返る。そんな感じ」
――演奏がはじまると、後ろの方でゆっくり見てはいられなくなります。いつも前の方で騒いでいますよ。
「そうですか。俺は人のライブに行ったら、後ろの方で見るけどね(笑)。おまえら、よくモッシュとか怖いことできるなって。絶対、無理(笑)」
――でも、客はみんな優しいですよ。足を滑らせたら周りがすぐに助けてくれるし、みんな楽しそうにニコニコして、誰も怪我しないようにモッシュしてる感じですね(笑)。
「俺らの伝えたいこともそこで、みんな理解してくれてますね。『楽しもうぜ!』ってのが一番。人生、死ぬときに後悔したくないじゃないですか。『いろいろ楽しかったからまあいいっか。好きなことやって、俺、楽しかったから、オールOK』で死んでいきたいなと思ってます。食の話もしましたけど、いくら健康管理してても、万人に必ず死は訪れるんだから。
もう死ぬなっつうとき、もっと楽しんどきゃよかったと悔やむんじゃなくて、『なんか楽しかったな。OK!』で死ぬのがいいと思っている。だからとにかく、楽しもうぜって」
――それがラフィンの基本姿勢。近々の発売が告知されている新曲、『Be Fun, Be Free, Laughin’Nose』にも通じる心意気ですね。昔からそう思っていたんですか?
「いや。ラフィンノーズがこういうバンドだと自覚したのは、本当にここ数年のことかもしれない。それまでも無意識ではあったと思うけど。ここ数年はしっかり意識していてお客さんにもそう感じてもらいたいんですよ」
チャーミーはライブのMCでよく「おまえらパンクやろ!」とか「俺はパンクだから」と言う。そしてチャーミーの言う“パンク”とは、髪の毛を逆立ててそこらじゅうに唾を吐き、鋲ジャンやリストバンドを手放さないといったティピカルなものではなく、もっと大きなくくりの“心の持ちよう”のようなものだ。
長いファン歴を持つ僕は、今回のインタビューを終え、やっぱりチャーミーは心の恩師で、パンクの先生だと感じた。
ラフィンノーズの曲は、それこそ80年代のインディーズ時代からここ数年でリリースされたものまで、いくつもお気に入りがあるが、中でも僕がとりわけ好きなのは、1996年発表のアルバム「A SAIN REVOLUTION」に収録されている『PUNK ALLWAYS』という曲である。
サビで繰り返される「Punk always on my mind」という歌詞は、いつしか僕自身の座右の銘になった。
「いつも心はパンクで」。
チャーミー先生から授かったこの言葉を胸に、僕もこれからの人生をアゲアゲで過ごしたいと思っている。

この日は62歳のバースディ。お祝いの花束もさらりと似合う。(撮影/木村琢也)
ドキュメンタリー「ラフィンノーズという生き方」
2011年、結成30周年時に制作・放送されたラフィンノーズ初の公式ドキュメンタリーフィルム。50歳時のチャーミー、そして当時もライブで全国を回るバンドの姿をぜひご視聴ください。
【プロフィール】
チャーミー/1961年6月21日生まれ、宮城県気仙沼市出身。
1981年12月に大阪で結成したパンクロックバンド「ラフィンノーズ」のヴォーカル。
83年12月、自ら立ち上げたインディーズ・レーベル「AA RECORES」よりファーストシングル『GET THE GLORY』をリリース。84年11月、ファーストアルバム『PUSSY FOR SALE』をリリース。85年11月、VAPよりアルバム『LAUGHIN’ NOSE』、シングル『BROKEN GENERATION』でメジャーデビューを果たすも、レコード会社の移籍、メンバーの脱退などもあり1991年に一度解散するも、1995年に再結成。以後、結成40年を超えた今も精力的なライブ活動を続けている。
その他最新情報は下記でチェックを!
公式ツイッター:@LaughinNose_
ラフィンノーズ オフィシャルHP
【撮影協力】
WONDER YOYOGI PARK
東京都渋谷区富ヶ谷1-8-7 飯島ビル2F
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