高卒後にNSC(吉本)東京に進学。栗城史多はお笑い芸人を目指していた!?
「ガイドにも伝わりますよね、『こいつはニセモノだ』って」死後も登山仲間たちが栗城史多を語りたがらない理由

初対面の女の子に落ちている石をプレゼント

「彼の技術じゃ無理だ、って誰もが思いますよ」登山器具もまとも扱えなかった栗城史多がマッキンリーを目指した理由_1
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北海道に戻った栗城さんは、2002年、1年遅れで札幌国際大学に入学した。

お笑いのプロは諦めたものの、栗城さんは入学直後からその方面での才能を存分に発揮していたようだ。高校時代の森聡先生同様、「彼に振り回された」と語るのは、人文社会学部の当時の助教授である。栗城さんとの初遭遇は、妙な噂を耳にした後だったという。

「入学してまもないころです。初対面の女の子にそこいらに落ちている石をプレゼントしている変な学生がいるって」

学術的根拠に乏しい俗説だそうだが、石をメスにプレゼントするのはペンギンの求愛行動と言われている。

「その〝ペンギン〟を捕獲しに行ったら、栗城君でした」

助教授は大学の「DJサークル」の顧問を務めていた。ブレイクダンスを踊る学生たちのために教室の床に段ボールを張っていたら、Tシャツ姿の男がタタタッと駆けてきて、バックスピン(背中でクルクル回る技)を決めた。

だが、彼が回った床にはまだ段ボールが張られていなかった。背中に血が滲むほどの擦り傷を、彼は負った。

「そのおバカなダンサーも、栗城君でした」

同い年の亀谷和弘さんはDJサークルの2年生だった。

「栗城は空手部だったんですけど、ボクらのサークルにも出入りするようになったんです。あいつ、DJのバックに映像を流すVJっていうのにハマっちゃって、札幌のクラブにも2、3回出ましたよ」

栗城さんとクラブとは、意外な取り合わせである。さすがにリュックは背負っていなかったようだ。曲の雰囲気に合わせて恍惚感のあるCG映像を流していたという。おそらく著作権フリーの映像をパソコンで編集したのだろう。助教授の研究室からプロジェクターを無断で持ち出して、夜、大学の校舎の壁に映像を映し出したこともあったそうだ。

大学祭では、犬小屋を改造して作った神輿の上に仁王立ちして、夜のキャンパスを練り歩いた。栗城さんは、ふんどし一丁、アフロヘアにサングラスという出で立ちだった。神輿には手持ちの花火がいくつも据えつけられ、勢いよく火の粉を撒き散らしていた。

「当然、裸の栗城にも火が飛びますよね。だから上半身やけどだらけですよ。本当バカです」

と亀谷さんは振り返る。