デヴィッド・フィンチャー監督の問題作

人生はないものねだりの連続。映画『ファイト・クラブ』にみる、1999年のアメリカと現代の日本との共通点_1
左からタイラー(ブラッド・ピット)、“僕”(エドワード・ノートン)
ロイター/アフロ
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昔の作品でも見たことがなければ新作映画!

一周まわって新しく映った作品の数々をピックアップする「桂枝之進のクラシック映画噺」、今回は『ファイト・クラブ』(1999)をご紹介。

大手自動車メーカーに勤め、リコール査定の仕事で全米を飛び回る主人公“僕”(エドワード・ノートン)。
高層マンションに住んでこだわりの北欧家具に囲まれる毎日だが、どこか満たされないまま半年以上不眠症が続いている。
心療内科に相談すると、「睾丸がん患者の会合に出てみろよ。あそこにあるのが本当の苦しみだ」と言われてしまう。
言われた通りに会合に参加した“僕”は、目の前の悲劇的な人たちを前に心の安らぎを覚えた。

ある日、飛行機に乗り合わせたのは、石鹸の行商人タイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)。危なっかしい話を聞かせてくる自信家で、“僕”とは対照的な性格の持ち主だ。
意気投合した2人はバーで飲み明かした挙句、タイラーの提案で互いを殴り合う。
殴り殴られることに生の実感を覚えたふたりは「ファイト・クラブ」という、その名の通り決闘を行う組織を立ち上げるのだが……。

大量生産、大量広告、大量消費。

この映画の主題は、行きすぎた資本主義社会へのアンチテーゼで、主人公の“僕”とは、我々のメタファーだ。
一方でタイラーは男の理想をかき集めて具現化したような性格の持ち主で、“僕”のように執着も不安もなく野生的な感覚で生きている。
“僕”にとってタイラーは、ひっくり返ってでもなりたい憧れの存在だった。