「人生が深刻な下降線をたどっていった時期の始まりだった」
エリック・クラプトンは27歳で一度死んだ…『いとしのレイラ』での悲しみ、その後も数多の悲劇に取り憑かれた「ロスト・イヤーズ(失われた数年間)」
「ロック・ギターの神様」と呼ばれるエリック・クラプトンが今から53年前の1970年11月9日に発売した『いとしのレイラ』。不滅の名曲とされるそのナンバーにまつわる逸話と、そのとき彼に襲いかかった悲劇を紹介する。
叶うことはなかった“愛”
──エリック・クラプトンは自らの1970年の後半をそう語った。
それまでは順調なはずだった。1969年に、大きな名声を得たバンド、クリームでの活動を終えたクラプトンは、次にスティーヴ・ウィンウッドらと“スーパーグループ”のブラインド・フェイスを結成してアメリカツアーを行った。

『グッバイ・クリーム [通常盤] [SHM仕様]』(ユニバーサル ミュージック合同会社)のジャケット。1969年に発売された、解散を発表したクリームが最後のスタジオ録音とアメリカ・ツアーからのライヴを合わせて発表したラストアルバム
長年憧れ続けたブルース発祥の地(とりわけアメリカ南部)への音楽探究は、彼らの前座だったデラニー&ボニーとの出逢いを経て、いよいよ抑えきれないものとなっていく。
そして、本国イギリスで得た名声を捨て去るかのように(注1)、活動拠点をアメリカに移す。1970年5月には初めてのソロアルバムを発表。それからはデレク・アンド・ザ・ドミノスとして発表する曲作りに没頭した。
しかし、順風満帆に見えた音楽活動の一方で、クラプトンは秘かな想いに長い間苦しんでいた。
それは親友ジョージ・ハリスンの妻パティ・ボイドの存在。それは“報われぬ愛”だと知りながらも、クラプトンの心にはいつも彼女がいた。
「彼女が、僕たちの状況を説明する歌詞がたくさん出てくるアルバムを聴けば、愛の叫びに負けて遂にジョージを捨て、自分と一緒になるんだって確信していた」
こうしてパティへの愛は、1970年11月9日にリリースした不朽の名作『Layla and Other Assorted Love Songs』(邦題『いとしのレイラ』)となって告白されることなる。
『Eric Clapton - Layla (Live at Royal Albert Hall, 1991) (Orchestral Version)』。The Official YouTube Channel for Eric Clapton.より
だが、クラプトンの一途な想いは叶うことはなかった。
(注1)
そのきっかけはクリーム時代に、ザ・バンドのデビューアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(1968)を聴いた時から始まる。「あまりの素晴らしさにその場に立ち尽くしてしまった」とまでクラプトンに衝撃を与え、自分がやっている音楽に恥ずかしささえ覚えたという。また、ブラインド・フェイス解散後には、デラニー&ボニーのツアーにサイドメンバーの一人として同行。アメリカ南部の風景がクラプトンにとっての約束の地だった。
ロック界の悲劇的伝説の“次なる犠牲者”
「それからしばらく一緒に暮らそうとやみくもに説得し続けたが、成果はなかった。ある日、必死の訴えが無駄に終わった後に『ジョージを捨てなければヘロインを常用する』と言った。彼女が悲しそうに微笑んだ時、ゲームは終わったと思った」
同年9月には、ドラッグが原因でジミ・ヘンドリックスがこの世を去っていた。同じギタリストとして、ミュージシャンとして、尊敬し合い交流もあったジミの死(享年27)は、クラプトンに大きな打撃を与えた。
さらに私生児だった自分を育ててくれた祖父の死にも直面し、精神的な支えを次々と失っていく。
こうした状況の中、クラプトンは次第にドラッグやアルコールに深く溺れるようになり、現実から孤立してしまう。

その影響はデレク・アンド・ザ・ドミノスのセカンド・アルバム制作中に最悪なものとなった。仕事がまったく手につかず、メンバー間には敵意さえ芽生え、大喧嘩の後、1971年4月に解散。
また、同年10月には『Layla and Other Assorted Love Songs』(邦題『いとしのレイラ』)の録音で親交を深めた、「持ったことはないが持ちたいと思っていた音楽的兄弟のようだった」オールマン・ブラザーズ・バンドのデュアン・オールマンが、オートバイで事故死(享年24)。

『Layla And Other Assorted Love Songs [Deluxe CD]』のジャケット。デレク・アンド・ザ・ドミノスによる唯一のスタジオアルバム。エリック・クラプトンの最高傑作とみなされることも多い
薬物や酒だけを友に、無の世界をさまよっていたクラプトンにとって、1970年後半~1973年は完全に時が止まった状態だったに違いない。
このころのステージでいつもサングラスをかけているのは、ドラッグのせいで焦点の合わない視線を隠すためだったと言われている。
彼の目の前には暗闇しかなく、ロック界の悲劇的な伝説(注2)の“次なる犠牲者”となっても何の驚きもなかった。
しかし、音楽仲間たちや周囲の献身的な手助けもあり、治療に専念することを決意したクラプトンは、1974年に音楽シーンへ奇跡的な復帰を遂げることになり、壮絶な日々を生き残った。
本人はこの時期のことを、自叙伝の中で「ロスト・イヤーズ(失われた数年間)」として赤裸々に綴っている。
(注2)
27歳で死ぬこと。ロバート・ジョンソンから始まったブルースマンの呪い。ブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソンなど。その後のカート・コバーンやエイミー・ワインハウスも同様。当時はクラプトンやキース・リチャーズが次なる犠牲者と言われていた。
*参考・引用/『エリック・クラプトン自伝』(中江昌彦訳/イースト・プレス)
文/中野充浩 写真/Shutterstock
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