苦節10年、待望の戦車の上に乗る“親父”の笑顔

10年間で1億円近い資金を投じ、行政を説得するために奔走してきた小林代表。彼がここまで軍用車両にこだわる理由とはなんなのだろうか。

「やはり日本人が生み出した技術を未来に残したい。私は陸上自衛隊の富士演習場のある静岡県御殿場市で育ち、多くの軍用車両に慣れ親しんできました。そして家業も板金屋であることから、機械やそれに使われる技術が大好きなことも理由にあります。

例えば、九五式軽戦車の内部には細かいハッチがたくさん設けられ、メンテナンス性が優れています。こういった部分はある意味、日本製品ならではですよね。そして、よく“日本の戦車は最弱”と言われることがありますが、1935年時に搭載されたディーゼルエンジンやトランスミッションも当時の最先端技術だったのです。

ただ、それをアップデートしたり、新型を開発する工業力は当時の日本にありませんでした。なので制式採用から10年使い続け、太平洋戦争のころには“最弱”と呼ばれてしまったのでしょう。

〈写真多数ルポ〉「グウォーオォン、ゴォッ、ゴォッ…」「動いた!」。苦節10年・旧日本軍九五式軽戦車が日本に里帰り。街の自動車工場の“親父”が挑み続けた日本上陸作戦とは…_5
“最弱”と呼ばれてしまった…

そういった歴史や機械技術を後世に伝えたいという思いもあり、防衛技術博物館の設立を目指しています。そもそも戦車をはじめとする防衛装備品の博物館は多くの国では当たり前に存在しています。これらも、その時代で最先端だった機械技術遺産を後世に伝えるのが目的ですから」

〈写真多数ルポ〉「グウォーオォン、ゴォッ、ゴォッ…」「動いた!」。苦節10年・旧日本軍九五式軽戦車が日本に里帰り。街の自動車工場の“親父”が挑み続けた日本上陸作戦とは…_6
戦車は御殿場に運ばれていった

防衛技術博物館のオープンは2027年に予定されており、今後はさらなる軍用車両も揃えていきたいという。

「私達は2014年に国産初の四輪駆動車である『くろがね四起」を走行できる状態まで復元しました。もちろん、この車両も展示します。今後は旧陸軍の車両だけでなく、自衛隊の戦車や装甲車といった陸上装備品の獲得にもチャレンジしたいですね」

苦折10年、待望の戦車に乘った小林代表は、満面の笑みを浮かべていた。
彼の挑戦は続くー

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取材・文/直井裕太  撮影/下城英悟