何者にも邪魔されない唯一無二の時間

また、TJARの415kmという道行きの長さは、選手たちに孤独な時間をもたらす。

日常では得られない、一週間という時間を、思索を深める絶好の機会ととらえる出場者もいる。
【出場選手③】東日本大震災で社会的なバッシングを受けた大手エネルギー関連企業に勤める44歳・男性だ。高校・大学・就職・結婚と、概ね計画通りの人生を進み、安定した人生を送っていた。それが3.11で一変。給与は激減、周囲からは白い目で見られるのではないかという不安を抱きながら、家庭を守るのに必死だった。人生で一つずつ積み重ねてきた積み木が、すべて崩れ落ちたと感じた。そこで人生の方向性を切り替えようとしているときに行き着いたのがランニングだった。

距離を徐々に伸ばし、ロードから山に入るようになると自分と向き合う時間が増え、さらに哲学書をよく読むようになった。男性が愛読するのは古代ギリシアの哲学流派の一つ、ストア学派のセネカ。

“自分がコントロールできるものだけコントロールせよ、コントロールできないものは、すべてを受け入れるべきだ”

そう読み解く男性は語る。

「人はいずれ死ぬ。それがいつかは分からない。であれば、悔いのないように生きて、好きなことに力を注ぐ方が幸せだ。その意味で、TJARは本当に毎日、目先のことを考えるだけで精一杯」

大自然の猛威に己の肉体が否応なしに晒され、感覚が限界まで研ぎ澄まされるTJARは、己の内面と向き合い、思索に沈潜できる絶好の旅路と考える。
並走しながらの取材では、ニーチェやヴィクトール・フランクルの『夜と霧』の話など多方面に話が及んだ。

「毎日を一生懸命楽しみながら生きたいのです」と語りつつも、過酷なレースに身を投げ入れる男性は、何とも言えぬ法悦に包まれた様な表情を浮かべている時があった。
担当ディレクターは「その男性がよろめきながらも前に進む姿を見て、お遍路の旅路を行く修行僧の様に思えた」と述懐している。