スポーツに対する「固定観念」を外さなければならない

二宮氏によれば、この乖離を生んでいるのは〈する〉〈見る〉〈支える〉という役割が固定化しがちな日本のスポーツの傾向だ。これを流動化させることで、人々とスポーツとの関わり方はより豊かで多様なものになってゆくだろう、という。

「今日〈する〉人が明日は〈見る〉人になってもいいし、〈支える〉人になってもいい。また、〈支える〉人が今度は〈する〉人になってもいい。いちばん大事なのは、この流動性なんです。

一例を挙げれば、ソルトレークシティオリンピックの取材に行った時、現地でメディア用のバスに乗ると、ボランティアの中に元オリンピアンがいました。『今までいろんな人に支えてもらったので、今度は自分が送迎係をやっているんだ』と、支える側になっているわけです。

日本では元メダリストが送迎係をやっているなんて聞いたことがないですよね。オリンピックに出た人は、いつまで経っても選手目線で話をする。でも、引退したら見る側の目線も、支える側の目線も必要なんですよ。自分の役割を固定化するのではなく、スポーツをする側、見る側、支える側と立場を変え、固定化しない。それによってエコサイクルが生まれてくる。

もちろん、結果を出した選手に対するリスペクトは必要ですが、役割が固定されてしまうと今度は悪い意味でアスリートが特権階級みたいになってしまう。そうなると“上級国民”といった批判が起きる。流動性の確保こそ優先すべきものです」

この役割固定化と多様性という点では、障害者スポーツに対するメディアの取り扱いも同様の問題を抱えてきた、と二宮氏は指摘する。

「たとえば、パラリンピックは最近では日本でも市民権を得てスポーツとしてメジャーになりつつありますが、かつては選手たちがどんなに素晴らしいパフォーマンスを発揮しようとも記事はスポーツ面ではなく社会面の扱いで、『感動をありがとう』で終わっていました。

障害者スポーツはずっと福祉行政として厚労省の管轄でしたが、スポーツ庁ができたこともあって、パラリンピックを巡る状況はここ10年ほどでだいぶ改善されてきました。福祉やリハビリとしての障害者スポーツは厚労省の管轄でいいのかもしれませんが、大会に出場するレベルの選手ならスポーツ庁の管轄は当然のことだと思います。

しかし、その一方でデフリンピック(4年に1度、世界規模で行われる聴覚障害者の総合スポーツ競技大会。2025年の東京大会開催がさきごろ決定した)はまだスポーツ面の記事になりませんよね。なぜデフリンピックの記事はないのかとメディア幹部に訊ねると『パラリンピックは市民権を得ましたけれども、デフリンピックはまだですから』と。要するに新しい格差、新たな差別が始まっているわけです。

市民権を得たから記事に出すとか出さないとかではなく、アスリートたちの競技なのだからメディアは自分たちで自主的に判断をして記事にすればいいんですよ。なのに、先ほどの役割固定化と同じで、根拠はなくても『こういうものだから』と自己規定して、それが慣習になってしまう。そこはたえず見直すべきではないかと思います。

お上のお墨付きがあるものをスポーツと解釈するような硬直した考えではなく、もっと自主的に、自分たちがスポーツだと思うものをどんどん発信していけばいい。そもそもスポーツの語源(註 : ラテン語のdeportare)は余暇、気晴らし、楽しみ、といった意味なのだから、身体を動かして気持ちが晴れるようなことは全部スポーツの範疇に入れてもいいのではないか。もっとフレキシブルな発想が必要だと思います」

そして、スポーツを支え出資する企業の考え方も、投資に見合う効果を求めるスポンサー型から、ともにスポーツを育むパートナーシップ型への移行が求められるようになってゆくだろう、ともいう。

「現在、私は中国5県の広島、山口、岡山、島根、鳥取で活動する様々な競技のクラブを支えるプラットフォーム〈スポーツ・コラボレーション5〉のプロジェクトマネージャーをしているのですが、企業に支援をお願いすると、『広告費に見合う費用対効果はありますか』と必ず聞かれます。

それぞれのクラブは、老若男女皆がする・見る・支えるという役割を皆が分担し入れ替わりながら、地域のコミュニティの核になることを目指している。この活動を通じて皆が健康になって親子の会話が弾むかもしれないし、地域の活性化を通じて観光資源になるかもしれない。『だから、費用対効果はやってみなければわからないけれども、一緒に子どもを育てるような考え方で、そのために皆が少しずつマンパワーやお金などを出し合うパートナーになっていただけるのであれば非常にありがたい』という説明をするようにしています。

スポーツはもともと公共財という側面が大きいので、そこに出資する企業にとっても元が取れるか取れないかという費用対効果以上に、これからはその公共財を共に育てるという発想や役割が重要になってくるのではないかと思います。

近年は投資家も企業のESG(環境・社会・企業統治)に注目するようになりました。従来なら財務情報の中に企業のすべてが詰まっている、という考え方でしたが、今では財務諸表の数字には含まれない環境問題や人権問題などへの対応が重視される傾向にあります。

それに呼応する形で、企業のスポーツに対する接し方も、スポンサーシップからパートナーシップへと変わっていくと思われます。株主資本主義からステークホルダー資本主義、そしてESG型資本主義へ――といった流れですかね、ざっくり言えば。

でも、こうした考えは、日本には昔からあった。近江商人の“三方よし”なんていう商売哲学は、まさにこれですよ。そんな時代において、不都合な事実を隠すことをホワイトウォッシングといいますが、スポーツを通じて都合の悪いことを浄化しようと企んでいる企業や国家は、世界の中で居場所を失うでしょうね。マネーロンダリングをやっている国家や企業と同じ運命を辿ることになるでしょう」

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