雪印食中毒では経営再建計画の目玉を取りまとめる

そして時が経ち、2000年夏。

連日30℃を超える真夏日のなか、髙橋氏は大阪や兵庫の住宅地を歩き回っていた。手元のリストには数え切れないほどの住所と氏名が記されている。一軒一軒を訪ね、食中毒被害への怒りに震える消費者に向き合わなければならなかった。

2000年6月末に発生した雪印乳業集団食中毒事件は、その夏における最大級の社会的関心事だった。製造工程の一部が汚染されていたために、毒素である黄色ブドウ球菌を含む低脂肪乳などが大量に出荷された。有症状者は14000人超。過去に例を見ない大規模食中毒事件だった。次々と明るみになる杜撰な衛生管理や隠蔽体質も大きな批判を集め、日に日に報道は加熱。雪印乳業の一挙一動に険しい眼差しが向けられていた。

拓銀を離れてから2年、髙橋氏は雪印乳業の経営企画室にいた。拓銀の特命業務中、大株主だった雪印乳業に謝罪に出向いた際に「次はうちに来ないか」と入社を請われた。雪印乳業は約1100万株を保有していて、破綻後には更に優先株式10億円を加えた巨額の損失が見込まれる。とても断るわけにはいかず、次の職場が決まった。

雪印乳業でも髙橋氏はいくつかの成果を挙げた。最初に配属された国際部では、経営陣が数年間も頭を悩ませていたタイからの事業撤退を、わずか半年間でまとめている。次に異動した医薬品部ではPL(製造物責任)訴訟を担当し、医薬品製造における訴訟リスクを洗い出した。しかしどこか仕事には白けていて、経営企画室に移るころには退職する機会を窺っていたという。

「組織に信用されてないと感じていましたね。医薬品部のときも『製造の意思決定の構造に問題があるので、PL対策を抜本的に見直したほうがいい』と報告したら、当時の社長が『これまで牛乳を作ってきたんだから、医薬品だって作れるだろう』と。やはり僕みたいな『外国人(中途入社者)』は信用されないんだなって。それで会社を辞める準備を始めたんですよ」

集団食中毒の発生は、その矢先のことだった。PL対策の進言を退けた社長は詰めかける報道陣に「私は寝てないんだ」と言い放ち、世間からの集中砲火を浴びる。事態が急速に悪化するなかで、髙橋氏は有症状者のクレーム対応を命じられた。

さらに、経営再建計画の策定にも参加を求められた。経営再建計画の目玉だった、ネスレ日本との業務提携では交渉の最前線に立ち、契約の締結を主導。2001年2月、雪印乳業はネスレ日本との合弁会社「ネスレ・スノー」の設立に漕ぎ着ける。

「こういう仕事が僕の居場所だったんでしょうね。僕より経歴が立派なビジネスパーソンはたくさんいるだろうけれど、『人の役に立つ』という意味では、僕もそれなりに仕事をしてきたのかなと」

これまでのキャリアを振り返って、髙橋氏はそう話す。かつて「日本で一番仕事ができる」と自負していた能力が最も認められ、注目も浴びたのは、皮肉にも二つの巨大経済事件における「敗戦処理」でのことだった。

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