薄氷を踏むような破綻処理の特命業務

1997年11月17日、拓銀は経営破綻を発表した。バブル期の乱脈融資が足かせとなり、不良債権処理が難航。資金繰りが急速に悪化した末の破綻だった。北海道内133店舗は北洋銀行、本州63店舗は中央信託銀行への営業譲渡が決まった。

破綻発表の3日後、髙橋氏は北海道の本社に呼び戻された。呼びつけたのは、破綻処理時に頭取代行を務めたWだった。Wは室蘭支店以来の上司で、誰よりも能力を評価してくれた人物である。

「Wの執務室で書類を見せられたんですよ。『倒産予定リスト』と書いてありました。ゼネコンや百貨店など、当時の北海道では力を持っていた企業が名を連ねていて『これが一気に連鎖倒産するのか』と思うと背筋が寒くなって…。

Wが『浩二、どう思う』って聞くから『これはマズいでしょ』って答えました。そしたら、Wが『じゃあ、お前がなんとかしろよ』って」

こうして髙橋氏は、破綻処理に係る特命業務を命じられる。ミッションは大きく二つ。一つは、できる限り多くの顧客を営業譲渡先に引き継ぎ、連鎖倒産の数を減らすこと。もう一つは、主要な株主を説得し、翌年の株主総会で事業譲渡の決議を得ることだった。

それからは怒涛の日々である。あるときは土下座し、あるときは凄んで、顧客や株主の首を縦にふらせた。現在ならば、国が経営破綻した銀行を国有化し、不良債権処理を進める金融再生法などの各種法令が整備されている。しかし当時の法律は銀行の経営破綻を想定しておらず、髙橋氏は法的な後ろ盾がないまま、顧客や株主を説得しなければならなかった。

薄氷を踏むような仕事を周囲は嫌い、特命業務の稟議書を受け付ける上司は誰もいない。仕方なく頭取代行のWのもとに赴くと、Wだけが稟議書の承認欄に印を押した。

「破綻発表翌年の3月31日に株主名簿が確定するので、大株主には『3月31日まで株を保有してほしい』と頼み込むんですけれど、相手は売りたいに決まっていますよね。紙くずになる株なんだから。でもこちらとしては、何とか株を持ち続けてもらい、株主総会で事業譲渡に賛成してもらわないといけない。

だから、足に抱きついてでも『売らないでくれ!』って…そうするしかないですよね。相手からは嫌われて当然の仕事ですが、僕としては会社の決着をつけなきゃいけない、という気持ちでした」

1998年6月、拓銀は株主総会を開催し、出席者の3分の2以上の賛成を得て、事業譲渡を決議した。会場は異様な雰囲気に包まれ、一部株主からは反対の怒号も飛んだが、事前の大株主への説得工作が効いた。生存が危ぶまれたゼネコンや百貨店も倒産を免れ、債権は営業譲渡先に引き継がれた。髙橋氏の銀行員としての最大にして、最後の任務は、こうして幕を閉じた。