1980年、拓銀に入行。初めに配属された室蘭支店を経て人事部に異動した。人事部は銀行ではエリートコース。将来を嘱望される存在として、髙橋氏は栄光への階段を登っていく。

キャリアのピークは、1988年からの香港勤務。当時の香港は、シンガポール、韓国などともに新興工業経済地域(アジアNIES)に数えられ、金融都市として急速に存在感を高めていた。金融の中心街である中環(香港中西区)には、世界中の金融機関がひしめき、中国系や東南アジア系の財閥、投資家、起業家たちが、生き馬の目を抜くような競争を繰り広げていた。日本もバブル経済の真っ只中。時代のうねりのなかで、髙橋氏も華僑向けの大型資金調達を次々とまとめ上げていく。

思い出深いのは、フィリピンを拠点とする通信会社の資金調達案件。「フィリピンが成長するには移動通信が絶対に必要だ」と熱く語る創業者の男に共鳴し、本社の反対を押し切って初期事業資金を貸し出した。のちにその会社はフィリピン最大の通信会社となり、男は「フィリピンのインフラ王」とも呼ばれるようになった。

「当時は、日本で一番仕事ができると思ってましたね」

拓銀破綻と雪印食中毒事件。平成を代表する巨大経済事件の「敗戦処理」を背負って_01
すべての画像を見る

福井の町で将来に思いを馳せていた少年は、十数年後、アジア経済の最前線を駆け抜ける辣腕の金融マンになっていた。

1995年10月11日。香港勤務を終え、7年ぶりの国内勤務に戻った翌日、東京営業部の営業課長として迎えられたオフィスで噂を耳にした。「月末までにキャッシュが3,000億円足りないらしい…」。拓銀が本格的に破綻の危機に瀕している。昇り詰めようとしていた階段が目の前から崩れていくのを感じた。