カントの概念は難しすぎるから教えられない?
要するに、「特別の教科 道徳」には、カントが念頭に置くような、非利己的で純粋な善意志から行為することを推奨するような記述はされていないのです(「別の箇所からそのような解釈も可能である」と言い出す人がいるかもしれませんが、少なくとも明確には、そして、自由や自律がテーマとされている箇所では説かれていません)。
しかし、非利己的で純粋な善意志から行為することのすばらしさを否定する人はいないはずです。そうであれば、そのような発想を教育現場で教える価値も否定しがたいのではないでしょうか。
ただ、カントの自由や自律の概念を導入することに対する異議として考えられるのは、小学生に対しては要求が過大であるという点です。そうであれば、当然のなりゆきで、中学生相手ならどうか、という疑問が湧いてきます。
しかし、『中学校学習指導要領』にも、中学生に配布される『私たちの道徳』にも、カント的な意味での自由や自律についての説明、すなわち、厳密な意味での自由や自律というのは非利己的で純粋な善意志からの行為のみであることの説明は、やはりなされていないのです。
中学生に対して、カントが念頭に置くような自由や自律の概念の理解を期待することは、過大な要求なのでしょうか。私はそんなことはないと思っていますが、ここでは仮に難し過ぎるとしましょう。だとしても、それは教えないことの理由にならないはずなのです。なぜなら、後からその意味であり、価値について理解できれば、それで十分だからです。
このような〔自由や自律に向かわせるための〕強制がどういう役に立つのか子供にはすぐには分からないかもしれないが、やがてその大きな利益に気づくことであろう。(カント『教育学』)
子供というのは何十年経っても、教師の言葉を覚えているものです(良い意味のみならず、悪い意味でも)。私は教師とは、大人になった後のその人に向かって語り掛けるくらいでよいと思っています。
私自身がそうでしたし、そういった可能性を信じて教育に取り組むという発想を持ってもよいのではないでしょうか。