避難計画によって再稼働の意思決定に巻き込まれる範囲が拡大
尾松 日野さんの言っていることはよく分かるんですけど、その言い方だとうまく伝わっているか不安があります。「原発避難計画がフィクションだ」ということは、ジャーナリスト、原発反対の市民運動の人たちも言っていて、フィクションということは当たり前、自明です。
これまで、「避難計画のルートを実際に車で走ってみると、橋がこんなに狭くて、ここで渋滞が起こったら避難できない」とか、「避難訓練をやってみたら、とても目詰まりが起こってできない」みたいな報道は今までもあって、「避難計画に実効性がない」とか、「絵に描いた餅だ」ということをひたすら指摘していく。それはそれで必要だと思うんです。30キロ圏を広域で避難させるなんていうことは不可能だというのは、ちょっと想像すれば分かるわけです。
日野さんの調査報道はそれが不可能だと改めて言ったということじゃないんですよね。日野さんの調査報道のすごさは何かというと、30キロ圏、そして受け入れ先を含めれば何百キロ圏みたいなレベルでの自治体に、避難計画という、どうやったって不可能な計画が義務づけられて、それをとにかく自治体の業務として職員たちは作らなければならなくなった。そこに不備があると、「●●市は何やっているんだ」と言われてしまうから、フィクションになることを分かりつつ避難計画をつくっている。全国の役所の小役人たちが、避難計画が完成したように装う猿芝居に加担させられているという状況を暴き出した、ということだと思うんです。
これまでも原発の立地自治体が原発再稼働に加担してしまう構造や、立地自治体だから経済的に依存して共犯関係になる、ということは言われていたんですけど、その共犯関係が立地自治体だけではなく、この辻褄合わせの避難計画を作っていく過程で、30キロ圏内の自治体、さらに避難者を受け入れる30キロ圏外の自治体にまで共犯関係が拡大している恐ろしさを初めて暴き出した。
こういうフィクションづくりの共犯関係の暴き方って、今まで日野さん以外やっていないんですよ。避難計画の策定を通じて広域自治体を原発再稼働、原発政策の加担者にしてしまう恐ろしさを、フィクションと知りながらフィクションを作らざるを得ない人たちの姿を通じて、暴き出しているということですね。
日野 書いた私自身よりも分かりやすく意義を説明していただきました(笑)。本当にありがたいです。まさしく尾松さんの言う通りです。この構図について、原発避難の研究を続けている広瀬弘忠先生(東京女子大名誉教授、専門は災害リスク学)は、本書に掲載したインタビューで、あこぎなセールスマンがドアの隙間に足をねじ込んでしまう、「フット・イン・ザ・ドア」と表現しています。
――ドアを閉められる前に足を差し入れると。
日野 そうです。住人はセールスマンを追い払うため、要らないけれども物を買ってしまうわけです。30キロ圏外の自治体にしてみると、「嫌だな、そんなの何でしなきゃいけないんだ? もしかして地震があったら自分たちの市民だって避難しなきゃいけないのに、何でよそから避難者を受け入れなければいけないんだ? そもそも仕事が増えて面倒だ」と思っているんです。でも、そこでウソを使って受け入れさせるわけです。
仮に首長が原発反対、再稼働反対であれば、「避難計画が再稼働の前提だ」とハッキリ位置づけられていたら、協力できないはずです。でも、「再稼働とは無関係」と装われてしまうと、協力せざるを得なくなる。そしていったん避難計画に協力してしまうと、避難計画ができて、いざ「再稼働します」となった時には、もう反対できません。「避難計画、受け入れるって言っただろ」「協力するって言っただろ」となってしまう。避難計画は本来、再稼働の前提なんです。「避難計画がなければ再稼働できない」というのは自明の理なんですが、その関係性を国は示していないわけです。むしろ逆に「そこに核燃料があるから、再稼働するかはさておき、避難計画はつくらなきゃいけないでしょ」と言っている。その時点で「運転中の原発はリスクが格段に高い」というフクシマの教訓を勝手に無視しています。
そうやってウソや隠ぺいで、国民の望んでいないことをゴリ押しするのが原発行政の特徴です。原発避難計画には、この特徴が端的に表れています。
さらに言えば、国や再稼働したい自治体にとっては、本当は避難先が確保できていなくても、まともな避難計画でなくても構わないわけです。なぜかと言えば、避難計画は再稼働のための手続きに過ぎないからです。避難計画が存在すればいいのであって、本当に使えるかどうかは関係ない。ここでもフクシマの教訓が無視されています。避難計画がなかったから混乱したので、今後はちゃんとつくりますって言ったのに、「計画があればいいんだろ」となっています。
尾松 私は、米国やロシア、ウクライナなどスリーマイル、チェルノブイリという原発事故を体験した国での被害者補償制度とか、廃炉に向けた原子力防災制度の比較から、日本の問題を見ています。
米国の場合もスリーマイル原発事故を受けて、10マイル圏(16キロ)にEPZ、「緊急時計画ゾーン」というのが設定されていて、原発稼働の前提として緊急時計画をつくらないと、規制委員会が稼働のお墨つきを出さないんです。ところが日本と違って、計画をつくる義務は自治体ではなく事業者にあります。福島第一原発事故後、日本の官僚たちは、米国の制度をつぶさに研究しているはずなんです。けれども、日本では計画の策定義務を、事業者ではなくて自治体に負わせたわけです。
日野さんの本を読んで改めて気づいたのですが、立地自治体だけではなく、受け入れる側の自治体も「絵に描いた餅」をつくる共犯者に仕立て上げられてしまう。自分たちも追及されたくないから、情報隠しに加担し始めてしまうんです。こんな共犯者を増やすような制度をどこまで意図的につくったのか、結果的にそうなったのか分からないけれど、米国との比較から日本の原発行政のひどさが見えてきた気がします。