「クソ化」した社会で育った子どもが大人になると……
おおた とすると、経済原理優先でつくられた都市部のニュータウン化・新住民化の流れの中で、共同身体性を失った子どもたちが大人になって損得勘定に囚われたまま社会を構成するようになり、ますます社会は劣化するし、そのひとたちに育てられた子どもも「同じ世界に入るって何?」って状態になるっていう悪循環が起きているわけですよね。
子どもを社会化するというのは教育の一側面ではあるわけですけど、その社会がクソ社会だったら……。
宮台 整理します。教育は、教育意図があるひとが子どもに何かを伝えて意図通り学ばせることです。それとは別に社会学には「社会化」という概念がある。これは、社会にうまく適応できるように、社会が子どもを「洗脳」することです。
教育の主体はひとですが、社会化の主体は社会です。だから、教育の失敗──教育意図の挫折──が社会化の成功をもたらすことがある。おおたさんや僕は、高校教育がめちゃくちゃだったから、まともに社会化されたんです(笑)。
逆に、「いい学校」で「いい子ちゃん」だったことで、社会の外で使い物にならない人格になったりもする。いずれにせよ、社会化とは、「社会をうまく生きられるように、成育環境が子どもを方向づけること」です。
だから、社会化とは「社会による洗脳」です。とすると、その社会がクソだったらどうしますかってことになる。そして、いまの社会は間違いなくクソ社会です。「クソ社会」とは「言葉と法と損得の外側を消した社会」のことです。
クソ社会はクズ人間を育てます。「クズ」とは「言葉と法と損得へと閉ざされた人間」のことです。「言外・法外・損得外」でシンクロして「同じ世界」で「一つになる」ことが、できない人間です。
クズは、新住民親みたいに、社会から祭りや性愛を消去します。彼らがいう祭りや性愛は「言葉と法と損得」の枠内に縛られた「からっぽ」。社会から祭りと性愛が消えれば、ひとは力を失い、まともな仲間や家族も作れず、社会は滅びます。
だから、このクソ社会による洗脳──その先兵がクズ親やクズ教員──から、子どもを奪還する必要があります。「言葉と法と損得」に閉ざされたしょぼい教育から、子どもたちを守らなきゃいけない。
その実践が、僕がやる性愛や親業のワークショップや「ウンコのおじさん」プロジェクトであり、森のようちえんであり、それを広げようとしているおおたさんの活動です。「沈みゆく日本の中で、沈まない界隈を残す実践」です。
おおた 社会がロゴス的な意味で「進歩」しているんだからそれに適応できる子どもを育てようというのが昨今の教育の潮流じゃないですか。でも、その「進歩」は実は「クソ化」だったりする。だとしたらそこに安易に適応していいんだろうかと思うわけです。
一方、宮台さんがおっしゃる「共同身体性」とか「同じ世界に入る感覚」というものは、人間の本質として何万年も前から変わらないものですよね。
宮台 このあいだまで普通にあったことです。
おおた グローバルな競争社会を勝ち抜くためにみたいな発想から、たとえば義務教育の9年間の中で、あれやんなきゃいけない、これやんなきゃいけないって、損得勘定的なもの、ロゴス的なものが次から次へと詰め込まれていくことによって、もっと人間として本質的な土台の部分がどんどん削られていっているように思うんですよね。
だとすれば、時代の変化や社会の変化が激しいときほど、この土台の部分は崩しちゃいけないよねっていう教育観に立ち戻る必要があるんじゃないでしょうか。
宮台 親が子どもを一生懸命コントロールしようとしている。先生も子どもをコントロールしようとしている。性愛でも、男が女をコントロールしようとしていて、女も男をコントロールしようとしている。実におぞましい。
で、コントロールできないと「どうしたらいいんでしょうか」とか言ってくる。僕、本当にね、このひとたち全員即死してほしい。人間や社会というものを、まったく分かっていないくせに、人間をコントロールしようとしているからです。
おおた 出ました。「即死系」。これ、宮台用語ですからね(笑)。