大仏開眼の年月日に込められた意味

仏像は形をつくり終えたあと、目を描くことで魂を像内に入れて「完成」となります。どの仏像でも必ず行うこの儀式が「開眼供養」です。東大寺大仏の開眼供養は、天平勝宝4年(752年)4月9日に執り行われました。

巨大な筆で目を描き、大仏に魂を吹き込んだのはインド人の僧侶、菩提僊那(ぼだいせんな)でした。開眼供養は『続日本紀』に「仏法東伝より、これほど盛大な斎会の儀はかつてなかった」と記されるほど、実に盛大に行われました。

菩提僊那が目を描き入れた筆には長い紐がつけられ、開眼のまさにそのとき、皇位を譲っていた聖武太上天皇や孝謙天皇を含む大勢の人々がその紐を握っていたと言われます。この紐は、今も正倉院宝物として収蔵されています。

さて、かくも豪勢な国家事業として命を吹き込まれた大仏には、造像を急ピッチで進めた足跡が遺されています。

ここで思い出していただきたいのは、「仏教伝来」の年です。538年説と552年説があり、現在は538年説を載せる書物が多いけれど、昔の日本では552年説が有力だったようです。

もうお気づきの方もおられるでしょう。東大寺の大仏が完成した752年は仏教伝来の候補年の一つ、552年からちょうど200年の節目に当たります。さらに先回りして言えば、平安時代の仏教建築を代表する平等院は、1052年に造営され、1053年に鳳凰堂が建てられました。ということは1052年に意味があるのです。

552年を起点にして、その500年後は末法に入る年でした。このことから、少なくとも平安時代までの人々にとって、仏教伝来は552年にあたる年という認識だったと思われるのです。

大仏の開眼供養に戻ると、開催日の4月9日という日にちにも意味があります。聖武天皇は本来、釈迦の誕生日である4月8日に開眼供養を予定し、それに向けて準備をしていたにもかかわらず、一日遅れてしまったのです。

では、大仏づくりが突貫工事で行われたことがどこで分かるのか。つぎにそれをお話しします。