サザン・ロックの誕生
「ヘイ・ジュード」がヒットし始めた頃、アメリカ深南部のアラバマ州にて。人口8,000人の田舎町マッスルショールズのフェイム・スタジオでは、サザン・ソウルの大物となっていたウィルソン・ピケットのレコーディングが行われていた。
エッジの効いたパワフルなヴォーカルと激しいシャウト唱法で成功をつかんだピケットは、1965年から3年連続でR&Bチャート1位曲を放つなど、最も脂がのっている時期にあった。
この時、ピケットのレコーディングに参加したのが、翌年にオールマン・ブラザース・バンドを結成する22歳の天才ギタリスト、デュアン・オールマンである。
デュアンはスタジオでのセッションの合間に、ピケットに意外な提案を行なった。発売されたばかりのビートルズの「ヘイ・ジュード」を、カヴァーしてみてはどうかと熱心に薦めたのだ。
デュアンをセッションに呼んだプロデューサーで、フェイム・スタジオのオーナーであるリック・ホールは、そのアイデアには賛同しかねたという。
自分でもソングライティングを行うピケットは、日頃からオリジナル曲を重視していたので、世界中でヒットしているビートルズの新曲をあえてカヴァーすることはないと、その案は即座に却下された。
それでもデュアンはピケットに「ヘイ・ジュード」を取り上げてほしいと、熱心に説得を続けていった。きっとうまくいくという、確信めいたものがあったに違いない。
幼い頃から聖歌隊で歌ってきたピケットは、10代の半ばからゴスペルグループで活動した後に、1959年にコーラス・グループのファルコンズへ参加してプロになった。そして「I Found A Love」という曲を書いてヒットさせたことから、ブラック・ミュージックの名門レーベルだったアトランティックに認められて、1964年にソロ・シンガーとしてデビューしてキャリアを築いてきた。
デュアンは気むずかしくて扱いにくいと評判だったピケットを相手に、休憩の間も自ら説得して、「ヘイ・ジュード」を試すところまで持っていった。
ビートルズのヴァージョンはイントロなしで、ポール・マッカートニーがいきなり「Hey Jude~」と歌い始める。最初はピアノだけがコードを鳴らす伴奏のシンプルな始まりだが、徐々にリズムやコーラスが加わって盛り上がっていき、後半からオーケストラが入ってポールのヴォーカルはソウルフルなシャウトを繰り返す。
音域が広くて歌唱力を要求される美しいメロディー、歌詞の内容も含めて否が応にも盛り上がっていく「ヘイ・ジュード」という楽曲の構造には、ゴスペルに通じるものがあった。そのことを理解したピケットの意思で、試しにセッションが行われることになった。
教会を思わせるオルガンの響きとシンプルなリズム隊をバックに、ピケットが感情を抑え気味に歌い出すと、一瞬にしてゴスペルのような荘厳なムードが醸しだされる。
デュアンの抑制が効いたギターが要所々々、歌に絡んだり促したりすることによって、ピケットのソウルフルなヴォーカルはホーン・セクションとも一体となって、何かに導かれるように熱を帯びて激しくシャウトする。
それをきっかけに後半の盛り上がりへと一気に突き進んでいくと、ヴォーカルに呼応したデュアンのギターによる叫びと相まってクライマックスを迎える。
ギタリストのジミー・ジョンソンは、そのセッションが終わった瞬間のことをこう語っている。
「こうして“サザン・ロック”が誕生したんだ」
アフリカ系アメリカ人の中から生まれてきたサザン・ソウルと、アイリッシュ系イギリス人が作った「ヘイ・ジュード」が、ゴスペルを介して出会うことによって誕生したサザン・ロックは、デュアンが率いるオールマン・ブラザーズ・バンドやレーナード・スキナードなどによって、その後のロックシーンに大きな流れを生み出すことになった。














