プラハの春

チェコスロバキアでは、1968年の初頭から共産党第一書記のアレクサンデル・ドプチェクの指導の下で、知識人や学生を中心に民主化運動が展開された。3月に検閲制度を廃止したドプチェクは、国民に言論と芸術表現の自由を保障した。ついで4月には新しい共産党行動綱領で、「人間の顔をした社会主義」を目指すことを打ち出す。

これを受けて、人々は社会のあり方や政治について議論ができるようになり、新たな政党の結成の動き現れる一方で、密輸入したレコードで聴いていたビートルズの音楽などがラジオからも流れ始めた。こうして民主化路線を支持する声が高まり、自由化を求める動きに拍車がかかった。

首都プラハの街では、ミニスカートなど西欧風のファッションが見られるようになり、6月には知識人らが署名した「二千語宣言」が発表された。その現象と急速な変革の運動は「プラハの春」と呼ばれたが、共産主義国の同盟を堅持しようとするソ連のブレジネフ政権は、8月20日から21日にかけてワルシャワ条約機構5ヵ国軍による侵攻に踏み切る。

20万人を超えるともいわれた軍隊がプラハの中心部を制圧し、放送局を砲撃してドプチェクらの指導者を連行した。この軍事弾圧、いわゆるチェコ事件が勃発したことによって、「プラハの春」はたちまちのうちに踏みにじられた。それによってわずか数ヶ月で、チェコはふたたび自由にものを言えない国に戻ってしまったのだ。

その時に身の危険から姿を隠さねばならなかったスポーツ選手が、1964年の東京オリンピックで女子体操の個人で3つの金メダルに輝いて、“東京五輪の名花”と称えられたベラ・チャスラフスカである。ベラは準備不足ながらも国際的な世論の高まりもあって、その年の10月に開催されたメキシコ・オリンピックに出場することができた。

写真/Shutterstock
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そして観客の熱狂的応援にも後押しされて、跳馬、段違い平行棒、床競技の3種目で金メダルを獲得。東京五輪に続いて、最高栄誉にあたる個人総合でも見事に連覇を果たして喝采を浴びたのだ。

しかし、オリンピックが終わって帰国したベラは、反体制の危険人物と見なされて、それから20年にわたって政府の監視下に置かれ続けることになる。「二千語宣言」への署名撤回を、かたくなに拒否し続けたためである。

そんな激動の1968年に、TVドラマ『ルドルフ3世への歌』の挿入歌として作られて大ヒットしたのが、マルタ・クビショヴァーの「マルタの祈り」だ。この曲でスターになったマルタもまた、やはりソ連に制圧されたプラハにいながら、表現の自由を求めて抵抗の姿勢を明確にしていく。