表現とはあらゆる自己表現の集まりである
――先生はたくさん書いてらっしゃる中で、資料も読み込んでいらっしゃいます。
連載当時は死にそうだったよ。『水滸伝』は「小説すばる」の連載なんだけど、4ヶ月で1冊分の原稿用紙500枚書いてくれと言われて。当時は週刊誌や新聞の連載もやってたから、本当に死にそうになりながら頑張った。
――これまで書かれた作品の中で思い入れがある人物は?
私が好きなのは、『三国志』の呂布(りょふ)※4ですよ。
――呂布はとても魅力的でした。ちなみに張飛(ちょうひ)※5も、「酒を飲んであんなに城を取られていたら一緒にいられないだろう」とおっしゃって造形されたのが、とても腑に落ちて。
あのあたりのリアリティを作るのが、現代の小説家の仕事なんですよ。
あるときアメリカに行って40歳ぐらいの女性が経営しているレコード屋でレコードを買ったんだけど。その女性がショートパンツをはいてて、ももに、わーっと毛が生えてる。
その人に「デートしてくれませんか」とか言ったんだけど、全然ダメでさ。それから帰って小説を書いているときに、「衝撃力のある何かないかな」と思ってその女性のことを思い出したんだ。それで、ももの途中ぐらいまで陰毛がバーって生えてるキャラを作ることができた。凄く良かったよ、存在感がものすごく出たしさ。
――張飛の妻、董香(とうこう)※6ですね! フィクションかと思っていたら、現実にモデルがいたんですね。先生のいろんな経験が小説の中に入っているんですね。
小説ってさ、張飛であろうが呂布であろうが俺なんだよ。
カメラマンがレンズを俺に向けるじゃない?「パシャッ」ってシャッターを切った瞬間っていうのは、実は自分を撮ってるんだよ。
それと同じで、表現っていうのは、あらゆる自己表現の集まりなんだ。全員が俺なんだよ。
――全員が先生だとしても、先生の作品では『水滸伝』でもそうですが、登場人物の視点が次々と切り替わっていきます。
もし才能があるとしたらそこだと思う。もう次の章には違う人になって書いているんだ。
史進(ししん)※7が遊郭で襲われるところを書いたとき、普通は逃げるか戦うかするよね。でも史進はさ、ずっと行為を続けてたんだよ。裸で鉄の棒を振り回して外に出てきて。俺はああいう人になりたかった。
――登場人物もリアルですし、展開も新しいですよね。
書いてる奴はいい加減だけど。
でも小説ってほとんど意図はないんだ。書けてしまうんだよ。書けてしまったものの方が良いんだ。意図すると、設計図にそって書くようなものだから。「え、こんなもの書いたの!」っていう方が良い。そうなると、死なせるつもりがなくても死んじゃったりするしさ。
――『水滸伝』で勝手に死んじゃったのって、例えば誰ですか?
最初に死んだのは、阮小五(げんしょうご)※8。軍師として活躍させるはずだったんだ。
――阮小五が死んじゃってびっくりしました。
俺もびっくりしたよ。呉用(ごよう)※9が自分の後継ぎの軍師にしようと思ってたんだ。呉用より遥かに漢らしくて、良い軍師になるだろうと思ったら、呉用より漢になったら死ぬんだよ。呉用みたいな臆病者は死なないんだよ。
――先生の作品は時代の描き方も斬新でした。
俺の小説は、「今は西暦でいうと1400年で、何があって」とは書かない。読んでいると、いつ頃の話か分かるようになっている。日本を舞台にしたものでもね。
それは、歴史を解説するっていうすごい技をやった先輩作家・司馬遼太郎がいるからなんだけどね。司馬さんの小説は半分以上解説で、むしろその解説が面白い。だけどそれは司馬さんがやってしまったから。















