古代からの逃避地「ニッポン」
こうした「潤日」は「新現象」に思えるかもしれないが、実は日本にとって「未経験」のことではない。それは、「ハイリスクな中国大陸」に暮らす中国人にとって、「ローリスクな日本列島」は過去にもつねに緊急時の「逃避地」だったからだ。
古代においては、特に以下の三つの時期に「渡日ブーム」が起きた。
①紀元前三世紀前後……西方の秦の始皇帝(統一前は秦の嬴王)が、「戦国の七雄」と言われた7ヵ国並列の戦国時代を終わらせ、全国統一に向けた戦争を本格化させた時期である。鉄製武器に劣っていたほかの六ヵ国の人々は必死に逃げたが、なかでも船を調達できた支配階級や富裕層の一部は、日本へ落ち延びた。
日本の弥生時代が「進化」していった背景には中国大陸の先進的な文明の流入があった。
②五世紀の始まりの前後……304年に前趙(当初の国号は漢)が興ってから、439年に北魏が華北一帯を統一するまでを、中国史では五胡十六国時代と呼ぶ。その後半は大きな混乱期だったため、再び少なからぬ中国の富裕層が日本へ落ち延びた。
③五世紀後半から六世紀初め……北魏が華北を統一した後、589年に隋が中国全土を統一するまでを、中国史では南北朝時代と呼ぶ。その隋による統一戦争の頃に、やはり中国大陸の混乱によって、中国人が日本に落ち延びた。
私は古代アジア史の権威だった上田正昭京都大学名誉教授が最晩年の時期、京都府亀岡市の小幡神社のご実家にお邪魔し、この頃のいきさつを詳しく聞いた。
上田教授は、平安時代初期の815年に編まれた古代氏族の系譜集である『新撰姓氏録』の写しを手に取りながら解説してくれた。それによると、畿内の有力な1182家の氏族のうち、じつに27%にあたる326家が、中国大陸や朝鮮半島からの渡来系氏族とされていた。
実際、大阪観光局のホームページにも、こう記されている。
〈5世紀の頃、日本の経済、政治の中心地として栄えた大阪。現在の大阪市中央区あたりに存在したとされる難波津は、当時新しく開港した港として、朝鮮や中国、アジア他国からの玄関口として利用されていました。アジアから大阪へやってきた訪問者たちは、前衛的な工芸品や陶磁器をつくる最先端の技術、鍛冶技術や工業、様々な最先端技術と情報を大阪に持ち込んだと言われています。そして、当時日本においてはまだ布教されていなかった仏教も、この頃に日本に伝わりはじめました〉
難波津の開港も、おそらくは渡来系の技術によるものだろう。ちなみに、難波津のシンボルである澪標は、大阪市の市章になっている。
古代において中国人は、前述のようにつねに西方の中央アジアを向いていた。漢代にはシルクロードを開拓して、8000㎞離れたローマ帝国とも交易していたほどだ。
そんな中で「後背地」にあたる日本は「緊急時の逃避先」と考えていたのではなかろうか。もちろん交易もあったが、一定期間に大勢の中国人が渡日するのは、中国大陸が危機の時である。