「これってアルバムに入れるよりシングルにしたほうがいいと思うんだけど」

美空ひばりを担当して以来、CMの仕事は一度もない。

しかし時代は変わり、ヒット曲作りのプロモーション媒体としてCMの影響力は無視できなかった。制作中のアルバムの中からどれか1曲使ったら、最高のプロモーションになることは必至だ。

デビュー40周年がより華やかになるかもしれない、境はそう思った。だが、新曲にトライしてほしいと頼みに来た鈴木と岩上は、映像のイメージを尊重することにこだわって、その話はいったん物別れに終わる。

しかし、業界一の大物歌手にCMを歌ってもらうこと自体が、極めて高いハードルであることを考慮した鈴木は、その後も何度か交渉していく中で境の提案を受け入れて、クライアントにプレゼンをすることにした。

1946年9歳でデビュー、1949年には『河童ブギウギ』でレコードデビューした美空ひばり。写真は1952年に公開された映画『リンゴ園の少女』(日本コロムビア)のDVDジャケット(1998年11月21日発売)。当時15歳の美空ひばりが写る
1946年9歳でデビュー、1949年には『河童ブギウギ』でレコードデビューした美空ひばり。写真は1952年に公開された映画『リンゴ園の少女』(日本コロムビア)のDVDジャケット(1998年11月21日発売)。当時15歳の美空ひばりが写る

美空ひばり本人にはアルバムの中の1曲をCMに使いたいという話があるとだけ報告しておいた。

ところが数日後、プレゼンした曲が企業イメージに添わないという理由で全て却下されて、境は窮地に立たされた。下心が見抜かれて失敗に終わったのだ。

鈴木からは悲壮な顔で、「あの映像に合ったオリジナル曲を作ってください」と依頼された。

境も天下の美空ひばりに対して、「クライアントに断られました」などと言えない。決断の時が来た。美空ひばりに内緒で、イメージに合った作品を作るしかない。

映像を見た小椋佳からは、数日後にデモテープが届いた。それを聴いて境は鳥肌が立つほどの興奮を覚えた。さっそくデモテープを持って、美空ひばりの自宅を訪れた。

当然、アルバムの中の一曲をCMで使う話では?という反応が返ってきたが、「まずは聴いてください!」と、質問に答えずにテープを流した。

応接間。歌い手は黙って最後まで耳を傾けた。そして微笑みながらこう言ったという。

「これってアルバムに入れるよりシングルにしたほうがいいと思うんだけど」

『愛燦燦』はもちろん、1965年にレコード大賞を受賞した『柔』、生前最後に発表された『川の流れのように』など名曲が収録されたアルバム『美空ひばりベスト 1964〜1989』(2011年11月2日発売、日本コロムビア)
『愛燦燦』はもちろん、1965年にレコード大賞を受賞した『柔』、生前最後に発表された『川の流れのように』など名曲が収録されたアルバム『美空ひばりベスト 1964〜1989』(2011年11月2日発売、日本コロムビア)
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こうして生まれた『愛燦燦』は、1986年になってCM放映が開始された。クレジットはされなかったので、多くの人は歌っているのがまさか美空ひばりだとは気がつかなかった。ヒットチャートも69位という結果に終わるが、境には確かな手応えがあった。

『愛燦燦』が21世紀にまで歌い継がれる名曲となったのは、心からこの歌を気に入った美空ひばりが、ステージで歌って、自らの表現力で命を注ぎ込むことによって、普遍的な人生賛歌へと成長させていったからだ。

奇跡的な名曲が誕生してくる背景には、歌手の力、ソングタイターの力、さらに裏方たちの力、それら表現者たちのドラマが潜んでいる。

文/佐藤剛 編集/TAP the POP 

参考引用文献
「歌こそわが命 美空ひばり思い出のエピソード」(境弘邦 著/産経新聞ニュースサービス)