大好きだった祖母と父との別れ
「私が小学校のころにおばあちゃんが、中学生のころに父が、相次いで亡くなっていたんですね。
そのため、私たちの生活費や学費など、母が苦労しているのを見ていましたので、少しでも母を楽にしてあげたいと思って就職をしました。
でも、歌うことをスッパリやめたわけではなくて、いくつかのバンドにボーカルとして参加したりもしていて、いつか人前に立つ仕事はしたい、とは思っていました」
そんな折、高校を卒業した弟が、埼玉県さいたま市の会社に就職が決まった。喜びつつも、弟がこうぼそっと言ったという。
「『嬉しいけど、ひとり(で上京するの)は寂しいなあ…』って。それを聞いて、思わず『私も一緒に行こうか?』って。自分の心の扉を開けた瞬間でした」
やっぱり自分は歌手になりたい。一度はたくさんの人がいるところで、自分なりにがんばってみたい。
その決意を話すと、母は止めなかった。
「『ふたりで行ってきなさい』って、言ってくれました。埼玉には知り合いはいませんでしたが、弟がいたので心強かったですね」
大都会・東京に、仙台よりは近い埼玉で、恵中さんが最初に選んだ職業は「バスガイド」だった。
「普通の事務仕事より、芸能のお仕事に近そうかな、と。やってみたかったラジオDJに似ているお仕事ですし、場合によっては歌を歌うこともできますしね」
思った通り、職が水に合ったという恵中さん。楽しいアーバンライフはこのまま夢へつながっていく…と思われた矢先。
「母が乳がんになってしまったんです。看病のため、バスガイドを辞めて仙台へ帰りました。
とはいえ母のがんは良性で大したことはなく、『向こうへ戻りなさいよ』と言われて、無職の状態で弟のもとへ戻ることに。
実は、母は昔から私に微妙に冷たいところがあって。その理由が私の『瞳』という名前が、実は父の初恋の人の名前だったらしいんですね。それを時折思い出してはイラッとするみたいで… 」
複雑な思いを胸に、関東での再スタートを切ることにした 恵中さん。そんな彼女には、まだまだ波瀾万丈の運命が続くのだった…。
【プロフィール】
恵中瞳 えなか・ひとみ 1988年10月16日生まれ、宮城県出身。歌手、モデル。2013年にモデルとしてデビュー。現在の事務所である南雲堂に移籍後、2015年に『おとこはアリャリャ』でCDデビュー。ライブや動画配信番組などで活躍中。Xアカウント: @t75147828
撮影協力:池袋東口ゲキパ
取材・文/木原みぎわ