袴田さんが手紙に綴った「死刑よりも怖いもの」
袴田さんの期待は疑念へと変わった。
「端布等、私のものではない。したがって私の荷物の中に存在するわけは、また絶対ない」
そして、すぐに、すべてを見抜き「前代未聞の権力犯罪が未だに生きている」と手紙に記した。狭い拘置所の中で、捜査機関の底知れない悪意を知った袴田さんは打ちのめされる。
しかし、その後、裁判所がその捏造を見抜けず、死刑判決を言い渡した、その時の絶望には比べようもない。「その後からだね。巖がおかしくなり出したのは」と姉の秀子さんが語っている。
「確定囚は口を揃えて言う。死刑はとても怖いと。だが、実は死刑そのものが怖いのではなく、怖いと恐怖する心がたまらなく恐ろしいのだ」(袴田巖さんの手紙より)
その後、控訴も退けられ、1980年11月に最高裁が上告を棄却して死刑が確定した。
1981年に袴田さんは再審請求を申し立てるが、静岡地裁は、その後13年余り、これを放置し、証拠調べもせず、ある日突然、棄却決定を出した。
再審に関する審理の進め方についての規則がないために、担当の裁判官は(おそらく何代にもわたって)逃げ続け、そして、請求を退けた。その同じ日々、処刑の恐怖に怯えながら耐えている袴田さんが、正に、同じ時間の中にいる、そこに思いを巡らすことは一瞬たりともなかったのか。
「逃げ腰」どころか、これは裁判官による「不作為犯」というべきである。そして、第一次再審請求は、その後もまったく進展がないまま終了した。
筆者が、番組の取材に入ったのは、第一次再審請求の即時抗告審のころ。弁護団は、5点の衣類が「捏造」であることを証明するための柱にDNA鑑定を据えた。同時に、衣類に付着した「血痕の赤み」(長期間、味噌に漬かっていたにしては、血の色が鮮明過ぎるという疑念)についての実験も進められた。
以後の裁判の流れを簡単に記す。
第二次再審請求の静岡地裁は、DNA鑑定と「血痕の赤み」の実験の両方を新証拠と認め、再審開始決定を出した(2014年)。しかし、検察が即時抗告。東京高裁は、二つの証拠を共に退け、開始決定を取り消した(2018年)。
だが、特別抗告を受けた最高裁は、DNA鑑定は退けたものの、「血痕の赤み」の実験について、科学的な証明が尽くされていないとして、高裁に差し戻した(2020年)。これは、再審開始に向けての「正解」を与えたようなものであった。
高裁が、弁護人に「血痕の赤み」に関する科学者の意見書を提出させ、これによって再び開始決定を出した(2023年)。これには検察もあきらめて抗告を断念し、今年、再審無罪判決にたどり着いたのである。
このような紆余曲折を経て、やっと認められた「捏造」であるが、実は、判決や決定で「捏造」という言葉が使用されたのは、この袴田事件が最初である。