袴田さんの「死刑判決」を書いた元裁判官のその後

熊本典道さんは一審静岡地裁で無罪の心証を持ちながら不本意にも死刑判決文を書いた裁判官だった。長年、罪悪感にさいなまれていた熊本さんは、2007年にそのことを公表し、袴田さんを救う活動に身を投じていた。

以下は2018年1月9日、袴田さんが病床にあった熊本さんに会いに行った時に同行した、袴田さん支援クラブ代表・猪野待子さんの手記からの引用である(袴田さん支援クラブ発行冊子『帰ってきた袴田巌さんとともに』より)。

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「熊本さん、イワオを連れて来たよ」と秀子さん。熊本さんは、声のする方に眼だけを動かします。
「熊本さん、わかる? イワオだよ」
すると、「イワオ~」「イワオ~」… … 熊本さんが嗚咽、そして間欠泉のようにイワオの叫び声が噴出。私もこみ上げる涙をぬぐいました。
横にいた熊本さんのパートナーさんが私に、
「ずっと謝りたかったですけんね」
 そうなのです!
 秀子姉さんが、熊本さんの積年の思いを叶えてあげた瞬間だったのです。
 熊本さんが、浜松に来て巌さんに謝りたいと言っていることは、秀子姉さんから私も聞いていました。しかし、熊本さんは病床にあり、もう浜松に来ることは叶わない状況。それなら、いつか巌を熊本さんのところに連れていきたいとも聞いていました。
そして昨日の昼前です。お昼を一緒に食べようと、私が袴田家を訪問したのは11時。この時、まさか福岡に行くことになるとは思いもしませんでした。
「巌さん、こんにちは」と挨拶すると、
「今日のスケジュールはだね。ローマへ出かけることになっているんだ」
 と巌さん。巌さんは二つの世界の中で生きています。現実世界と袴田さん独自の精神世界とです。
 そのことを秀子姉さんに伝えると、
「なに、ローマに出かける? それじゃあ熊本さんのところへ行こう! 福岡だ!」
 と即決、13時50分発の新幹線に乗り込んでいました。
 秀子姉さんという人は、澄み切った川のような人で澱みがない。恨み辛みが澱んでいない。それに、人の心を解し、賢明で優しい人です。
「もっと早く熊本さんが告白してくれたら…とは思わない」
 と知り合って間もないころに訊いたことがあります。
「そんなこたあ~思わないさ、熊本さんだって、何も黙っていれば楽なのに、あえて言ってくれたわけだもの。そりゃ~有難いさ」
 熊本さんが巌さんの無罪の心証を公表した決断と、秀子姉さんの寛容感謝が引き合った劇的な場面でありました。
 私はまた、眼前の光景が奇妙にすら感じていました。
50年という月日が逆転をもたらしていたからです。
 今、自由を手にしている巌さん、今、ご病気で自由を奪われているのは、かつて自由を奪った側の熊本さん。
 別れ際、秀子姉さんは熊本さんの顔に触れながら言いました。
「熊本さん、元気出さにゃー」
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熊本さんは2020年11月11日に逝去されているが、袴田さんの再審が開始され、名実ともに無罪判決が出るまでは成仏されないのではないかと思う筆者である。

※本記事は2023年3月25日に配信したものに加筆・修正をしたものです

取材・文/坂本敏夫

さかもと・としお/ノンフィクション作家、元刑務官。1947年、熊本県生まれ。父と祖父も刑務官で、刑務所や拘置所の近くにある官舎で育ち、自らも19歳で刑務官になった。1967年1月、大阪刑務所の看守を最初に神戸刑務所・大阪刑務所係長を務めた。その後、法務本省事務官、東京矯正管区専門官、長野刑務所・東京拘置所・甲府刑務所・黒羽刑務所で課長を務める。1994年3月、広島拘置所総務部長を最後に退職した。おもな著書に『元刑務官が明かす死刑のすべて』 (文春文庫)、『誰が永山則夫を殺したのか 死刑執行命令書の真実 』『囚人服のメロスたち 関東大震災と二十四時間の解放』