鮮烈な甲子園弾からプロ入りも、3年で退団
「父がブラジル人とイタリア人のハーフで、母のルーツが沖縄なんです」
母方の祖父母は沖縄からブラジルにやってきた移民だった。明治時代から戦後にかけて、たくさんの日本人が南北アメリカ大陸に移民として渡っていった時代があるのだ。日本がまだまだ貧しく海外雄飛に希望を見出した人たちがいたこと、現地では大規模プランテーションでの労働力を求めていたこともあった。とりわけ本土よりもさらに経済的に厳しかった沖縄からの移民が多かった。第2次大戦では焦土となってしまったため、故郷をあとにする人々はさらに増えた。
こうしてブラジルにはおよそ26万人の日本人が移住し、苦労をしながらも現地の社会に溶け込んでいったが、瀬間仲さんもサンパウロ州トゥパンでそんな一家に生まれた。小さいころから親しんでいたのは野球だ。ブラジルといえばサッカーのイメージが強いが、アメリカからの植民者が野球を持ち込み、それが日系移民たちの間に広がっていった。日系人の母と結婚して日系社会とつながりがあったためか、ブラジル人の父も野球を好んだ。その影響を受けて、瀬間仲さんも自然と野球に親しむようになっていった。
しかし日系人にしてはブラジルの血も濃い顔立ちの瀬間仲さんは、
「日系人の多い野球チームの中ではブラジル人って扱われて、でもブラジル人社会の中では日本人と言われて育ったんです」
と笑う。ハーフゆえの苦労もあったようだが、才能はすぐに開花。中学時代からブラジル代表に選ばれ、4番を打つようになる。国際試合を経て日本でもその打棒が知られるようになるが、実のところ瀬間仲家にとっては経済的になかなかきつかった。野球選手として活動するのに道具やユニフォームなどお金がかかるからだ。
「ブラジルで野球をやるってたいへんなんです。でも両親は苦労しながら応援してくれた。3人きょうだいで一番下なんですが、兄と姉も支えてくれた。だから〝いつかプロ野球選手に〟というのは、自分だけじゃなくて家族の夢でもあったんです」
その夢がかなえられるならどの国でもいいと思っていたが、声をかけてくれたのは日本だった。現地の日系企業の尽力によって建てられた野球アカデミーを経由して、15歳のときに日本の地を踏み、宮崎県の日章学園に入学した。
「はじめは言葉がまったくわからなかったですね」
日系人とはいえ、生まれ育ったのはポルトガル語の環境だ。日本語はほとんど話せない。もともと読書好きなのに、日本の本が読めないことがもどかしかった。日本の街中で書店を見ると、出入りしている日本人の客を羨ましく感じた。野球や学校生活で不便なこともあったが、いつか日本語の本を読めるようになりたいというモチベーションで勉強をはじめた。
「日本語を読みながらわからない単語が出てくると携帯電話で調べて、少しずつ読み進めていく。そんなことを繰り返していました」
その甲斐あって2年目からはだいぶコミュニケーションも取れるようになってきた。そして高校3年の2002年、憧れだった甲子園に出場。ブラジルから観戦に来た両親の前で、ライトスタンドに豪快なホームランを叩き込む。チームは初戦で敗れたが、この一発が注目されて、同年秋のドラフト会議で中日ドラゴンズから7巡目で指名される。家族の夢が叶ったが、そこが野球選手としてのピークだった。