【私のウェルネスを探して】パラアスリート谷真海さんが明かす「東京五輪への複雑な思い」「競技・仕事・家事育児のバランス」_a

引き続き、パラアスリートの谷真海さんのインタビューをお届けします。谷さんを知ったのは、2013年のオリンピック東京大会招致の最終プレゼンテーションでのスピーチだと言う人が多いかもしれません。スポーツの力、希望、人々をつなげる力について伝える4分間の英語のスピーチは、多くの人の心を動かしました。

後編では、招致スピーチ抜擢のきっかけ、東京オリンピックを振り返って思うこと、今後の展望を聞きました。また4月から小学生になる息子さんの育児と家事、アスリート活動の両立についても話を聞きます。(この記事は全2回の2回目です。前編を読む)

東京五輪招致の英語スピーチ、緊張したけど貴重な経験

2011年、谷さんは働きながら大学院に通い始めます。海外のパラリンピック事情を調べることが目的でしたが、ヒアリングするためには英語が必須に。大学院の先生からは海外に行って、アスリートだからこそできる情報を収集しながら、友達をたくさん作ってきたらいいとアドバイスをもらいます。

「私はパラリンピックやパラスポーツに力をもらっていたのですが、魅力を感じる一方、世界と日本では状況が違うという課題意識がありました。パラリンピックが強い国は環境が違うはずだという前提で話を聞き始めましたが、やはり違ったというのが結論でした。日本もまだまだ変えるべきところがある。英語は最初は思うように話せず、身振り手振りを入れながらのスタートでした。日本にいる時にもラジオやドラマ、映画を浴びるように聴きました。途中、海外遠征にも行きましたね。最初は聞こえなかったのが、少しずつ分かるようになって。耳から聴くことでブレイクスルーすることがあると実感しました」

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その後アジアアスリートフォーラム2011で、「スポーツの力」をテーマに英語でスピーチを行いました。それがきっかけで、2013年の東京大会招致のパラアスリート代表に選ばれます。

「2011年には東日本大震災があり、3月4月と練習を中断して、実家がある気仙沼に何度も帰りました。色々なことが重なった大変な時だったのですが、その後、2013年3月にIOC評価委員会が東京に来る時のプレゼンとして、パラアスリート代表で話す機会がありました。そこで評価されたことが最終プレゼンにつながります。招致のスピーチは緊張しましたが、貴重な経験でした。想像していなかった大舞台が続いたので、ずっと背伸びしているような気持ちもあって。追いつけるよう、もっと成長しなきゃと思っていました」

パラトライアスロンに競技変更した理由

スピーチから1年後の2014年、招致をきっかけに出会った現在の夫と結婚。2015年には長男が誕生します。その後、しばらくは子育てに専念しますが、再びスポーツをやりたいという気持ちが生まれます。走り幅跳びでは3大会パラリンピックに出場し、目標にしていた5mを達成。妊娠したことで走り幅跳びはひと段落と考えていました。でもスポーツは続けたい、そんな中で興味を持ったのがトライアスロンでした。

「なぜ競技を変更したのですか? といつも聞かれるんですが、気軽な気持ちなんですよ(笑)。なぜ一番辛いスポーツをやるんだろうと疑問に思われる人も多いかもしれませんが、辛さとかは一切考えずに、長距離なら長く続けられるだろう。元々水泳をやっていたし、できるんじゃないかという気持ちからでした。一番のネックは義足で長距離を走ることですが、パラトライアスロンはトライアスロンの中で距離が短くてランが5kmなんですよ。それなら挑戦してみようかなという気持ちでした」

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書籍『パラアスリート谷真海 切り拓くチカラ』(徳原海編著、集英社)より。撮影/矢吹健巳[W]

その時、東京大会への出場は遠い夢でした。2016年のリオ大会からパラトライアスロンが正式種目になること、開催会場がお台場であること、家の近くで開催されることなどに直感的なものを感じ、東京大会を目指して、本格的に国際大会を転戦するように。しかし開催の2年前、クラスの変更を余儀なくされます。クラスとは、障がいの程度や動作能力から分けるもので、谷さんは「PTS4」でした。しかし「PTS4」が競技人口が少ないため、東京大会では開催されないことが決定します。

「本来なら、前大会の2016年には決まっていないといけないこと。準備を進めていく中で、急にクラスがバッサリ無くなるのはあり得ない。前回のリオ大会でも同じことが起きていたようで、東京大会でも同じことが起こった選手もいました。自分的には苦しいですが、軽いクラスへの統合は可能なはず。いずれにせよ、黙っていてはいけないと思い委員会に手紙を出しました。結果、4カ月後にルール改正が決まり、一つ上の『PTS5』で目指せる状況になりました」