「いてもいなくても変わらないから、遅刻してもわからないね」
こころは、総合病院で働く看護師だ。私も知っている病院だが、こころを診察したときに、彼女の勤務状況を聞くと、大変そうだった。
こころが、ある日、初めて仕事に遅刻した日のことだった。前の晩はなかなか眠ることができず、ベッドの中でスマホを見ていた。うとうとしたら目が覚めるのを繰り返しているうちに寝入ってしまい、ハッと気づいて時計を見たら始業時間だったというわけだ。
化粧もせずボサボサの髪で慌てて職場に出てきたこころを先輩ナースの紗江が見て、みんなに聞こえるような声で言った。
「あれ、今来たんだ。さすが、偉い人は余裕あるねー。でもさ、いてもいなくてもそんなに変わらないから、遅刻してもわかんないね」
もう1人のナースがアハハと笑った。同期の仲間や後輩は、聞かないふりをしたり、下を向いたりしていた。
1年前から紗江とこころは折り合いが悪かった。それどころか、病棟の看護師全体からこころは避けられていた。原因はわかっていた。ベッドから立ち上がろうとしていた脳梗塞の高齢男性患者を見た紗江が、
「おじいちゃん、勝手に動かないでください」
と言ったとき、こころは、自分の祖父が注意されたような気がして、つい反論してしまった。
「『おじいちゃん』じゃなくて高柳さんです。それに、動くのは高柳さんの自由だと思います」
その日から、紗江のこころに対する風当たりがキツくなった。周りのみんなも必要なこと以外は話をせず、目も合わせなくなった。
自分だけが入っていないメッセージグループ
ある日の昼、病棟の休憩室にこころが入ると、それまで部屋の外まで賑やかに聞こえていた笑い声が一瞬で静かになり、みんな下を向いてスマホを見始めた。
どうやらこころが入っていないSNSのメッセージグループができていて、そこで会話をしていたらしい。以前、仲の良い同期がこっそりと教えてくれた。こんな地味な嫌がらせが続いている。
この前は、大切な提出書類があるのをこころだけ渡されずに看護師長から怒られたこともあった。もらっていないと言うと、紗江がずっと前に渡していると言う。休憩室に戻ると、こころの荷物の上にその書類が置かれていた。シフトも変だった。病院が救急当番で忙しい日は、必ずこころが夜勤になっていた。
休憩室でみんなが目配せをしたり、スマホを見ながらクスクス笑うのを感じながらお弁当を食べようとした。だが、食欲が湧かない。卵焼きは大きな塊になって喉につかえるようで、うまく飲み込めなかった。